魔物の森に迷い込む

 ここ何年と、自身に一日一万歩の散歩を課している。森や林や草原は同じルートを辿ろうとも、天然・自然の色香諸々移ろいの中だから、同じ花でも日々新たな顔で接してくれる。それゆえ不満はないのだけれど、浮気の虫というやつだろうか、ときに余所の女…ではなく、景色の中における絶対的な転換が欲しくなったりする。…てなわけで、きょうは初めての道を辿ってみた。
 三十分も歩けば那須街道に出ると踏んだ道だったが、歩き始めて一時間半。行けど歩めど予想の景色が現れない。くねるばかりの山坂の道。方向感覚を失って、あらぬ方向に迷い込んでしまったらしい。
 奇妙なのは、人家はあるのに人っ子一人出逢わないこと。それでも最初のうちは余裕があった。
(ここは幽霊の村なのだろう。つまり無人ではなく、みなさん昼間だから就寝中ということだろう。これは四谷怪談のお岩さんの家。こっちは番町皿屋敷のお菊さんの家。その隣は牡丹灯籠のお露さんの家)…なんぞと冗談めかして歩いていたのだが、二時間も過ぎると、バカを言ってはいられない心境になって来た。
 はて? さっき見た感じの家がある。この佇まい、このショット。これにもどこか憶えがある。どうやら同じ処を巡っていたのだと、遅まきながら気か付いた。
(こいつは魔物に嵌められたかな?)
 すでに空はスズメ色。間もなく闇が襲って来る。どっぷり闇に囲まれたころ、提灯なんぞぶら下げて、絶世の白美人が出て来やしないだろうか?
「おや、こんな闇夜にどうされました?」
「どうもこうも、道に迷ってこの始末」
「それはそれはお気の毒。なればこのわたしくが、地獄の底までごあんな〜い」
 怖い環境で怖いことを考えれば、大人だって怖くなる。元来僕は小心者。
 ゾゾッとして来たときだった。微かに聴こえる人工の音。バタバタバタ…。バイクのようだ。
(やったーっ!)と僕は小躍りした。
 エンジン音がいよいよ近づいて来た。角を曲がって現れたのは郵便屋さん。僕は「おーい!」と叫んで手を振った。
 その郵便屋さん、ニッコリ笑うと手を振り返しつつ僕に近づき、そのまま僕の脇を通り抜けて、タッタカターと行ってしまった。
(マジかよ!)
 五十がらみのそのおじさん、山での挨拶と思ったらしい。でもね、古希を過ぎたジイさんが、用も無く郵便屋さんに手なんか振らないよ、普通。
 それから一時間、僕はヘトヘトになって人里に出た。見上げる空には星がキラキラ。僕は危うく、あの星の一つになってしまうところだった。