トゲと涙とオペ室と

 散歩の道に、実を結び出したばかりのイガグリの赤ちゃんが、ポツリポツリと落ちている。激しい雨にやられたらしい。折角生まれて来たのに落下。同情の余地はあるけれど、でもね、悪いけど僕はイガを好きになれない。つまりね、トゲのあるやつが好きではないのだ。ヒイラギもピラカンサハリネズミスズメバチも、政治家も医者もクラゲも、み〜んなトゲがあるから嫌い。あの忌まわしい事件も、結局のところはトゲだった。それを語るには、かれこれ二十年ほど遡る。
 ある時、左手親指の爪の脇から血が滲むようになり、それがジクジクするばかりで止まらない。痛くはないから暫く放っておいたけど、一か月しても血のジクジクが止まらない。少々不安になって会社の医務室に行ったら、さる大病院から週一で出向していた皮膚科医が、指を診て言ったものだ。
「ひょっとするとガンですね」
 ガ〜ン!
「明日、わたしの病院へ来て下さい。猶予は出来ない。精密検査を経てからことですが、念のためパジャマと下着類も用意して来て下さい」
 ガン─検査─入院。嫌な予告を受けた僕は、翌日、辞世の句とか何とか、あれこれに中途半端なことを散発的に考えながら、トボトボと病院に向かった。
 受付で名前を名乗ると、大勢の順番待ちを吹っ飛ばして即診察室へと通される。そこであれこれいじり廻されたあと、若い看護師が僕を別室に連れ出した。窓のない怪しげな部屋。そこに入ると、若い看護師は微笑みながら「シャツとズボンを脱いでね」と言った。朝っぱらから「靴下も脱げ。パンツ一枚になれ」と言うのである。手の指だけのことで、何故素っ裸にさせられちゃうの?
 娘のような看護師の前でパンツ一丁になると、脇にあったストレッチャーを指差して「その上で寝ろ」と言う。服を着た女性の前で素っ裸だもの、その時の心境たるや「奴隷」ですなあ。
 奴隷はストレッチャーごと運ばれて、一言の断りも無しに、ストレッチャーごと全身シャワーを浴びせられた。
 うろたえる奴隷が次に運ばれたのは、無数の電灯機の真下。回りには白衣とマスクの男や女たち。…ゲゲッ、オペ室だ!
 白衣の男が言った。マスクから出る声で判った。くだんの医者である。奴は僕の右肩にマジックで×を書き込んで言った。「多分、親指は切断となるでしょう。切り口には、いま×印をしたところの皮膚を移植します。でも、最悪の場合は肩口からの一本丸ごとの切断となります。間もなく出る検査結果でガン細胞の有無が判明しますから、それを待って手術しましょうね」
(なんじゃ、こりゃあ! 聞いてねえよ!!!)
 僕は、瞬間二キロは痩せたと思う。
 オペ室の電話が鳴った。看護師が受話器を医師に差し出す。
「はい、わたし。…えっ? …あら、そうなの。はいはい、判りました。はい、了解」
 受話器を置いて医師が言った。
「ガン細胞、見つからなかったです。帰っていいですよ」
 回りに居たマスク共が「よかったですね」とか言いながらオペ室を出て行く。僕は憎き医者に歯向かう気力も失って、しばらく裸でボケ〜ッと寝ていた。
 後日、指のジクジクはシャコバサボテンのトゲが原因だったと判明した。
 いま足元に転がる小さきイガグリの赤ちゃんたちよ。ごめん。きみたちが実りを待たずに落ちたのは不憫だけど、それ以上の心をきみたちに手向けることは出来ないんだよ。次の世では、トゲを脱いで生まれておいでよ。そのときこそ僕は、きみを真実迎えるからね。