那須のナスボケのナス

 ニッポンは大したものだ。原発事故の汚染水が未だ海に垂れ流されているというのに、電車内もデパートもギンギンに冷えている。食料だって、自給率40%を切りかけた国なのに、有り余っているかの如き振る舞いだもの。主要10社のコンビニで捨てられている食べ物は、弁当だけで年に4億2千万食あるんだとか。ドヒャーッと僕は仰け反って、危うく脳天打撲で昇天するところだった。
 だってその数、療養者や乳児幼児を除いたら、全国民で五食分ずつ食べられる量ですぜえ! しかもこれ、主要10社の弁当だけ。他のコンビニや全食品店の廃棄食品を加えたら、一体どんだけの尊い食糧を捨てちまっているんかい?
 貴重な食べものを湯水のように…とここまで書いてから、僕はこの言葉に対して、自ら「トンデモナイ!」と反省した。「湯水のように…」って誰が使い始めた言葉なんだ? いま東京首都圏には10%の取水制限がかかっている。水がどれほど貴重かは、取水制限なぞ無くても、あの原発人災事故で、誰もがイヤというほど思い知った筈ではなかったか。いやはや「何でもカンでも(人命さえも含めて)政府が率先して粗末にしているなあ」…と僕は嘆息する。
 3.11未曾有の大震災大人災を体験した僕は、食品業界にある『三分の一ルール』にも嘆息した。このルール、例えば賞味期限が一年の食品である場合、①メーカーから小売店まで。②小売店から消費者まで。③消費者が買ってから消費するまで。それをそれぞれ三分の一の四カ月と考え、①と②は、それぞれの期間が過ぎたら廃棄する─というもの。衛生上は最もだが、廃棄までかなりの期間を残す食品を、知恵も無く廃棄するというのが引っかかる。
 悶々としていても仕方がない。「されば…」と僕は、那須の庭に農園を開設した。理想とする自給自足の試みだ。「舌に金字塔が打ち立てられる作物への挑戦だーっ!」ぐらいの高揚感があった。…おっと、それについて、感心なんかしなくて宜しいのですよ。農園たって、庭の隅を畳二畳分ほど掘り返しただけだからね。
 せっせとスコップを振るう僕を覗きに来た二軒隣のオッサンが、「何これ。ゴミの穴?」とぬかしおった。このオッサン、現役時代は全国紙の編集局次長だった人だから、僕と同じマスコミ育ち。その世界で育った連中は、大概口が悪い。毒キノコだって「そんな連中に喰われたくない!」と叫ぶほどに口が悪い。この隣人もその口だから、「おまえさんを埋める穴だよ」とやり返してやった。
 掘り起こした農園に植えたのは、三宅島から友人が持ち帰ったアシタバ四本。それとナス二本。トマト四本。シソ二本。バジル二本。これを「僕の農園」と言ったら、くだんの隣人「えっ、僕は脳炎?」と訊き返す。「うっせえ」と言いつつ酒を持ち出し、ベランダで目糞鼻糞論議を始めるのは、いつものパターン。楽しいんだわ。
 ともかくも「脳炎」呼ばわりされるほどの農園だけど、始めの一歩はこんなもんでいい。アシタバはその名に由来するように、「アシタはまた生える葉っぱ」だし、トマトは夫婦で一日二個もあればいい。シソもバジルもこんもり育てば、二人分なら毎日使える。ナスは「上手に育てれば、一本から八十個のナスビが採れるからね」と、地元のおばあさんが教えてくれた。八十個! すっげーっ!
 結果は二本から四個だった。「那須のナスボケのナスってかい?」って感じ。そのうちの一個を次女が持ち帰り、「おいしかったよ」と電話を呉れたときは、八十個のナスビが採れたほどに嬉しかった。
 お百姓さんは尊い。僕は尊くないから、やっぱり食べる側だな。食材を余すことなく食することで、天と地と水、そしてお百姓さんや漁師さんたちへの謝意表明としたい。