昼間のホタル

 今週末は「海の日」を無理矢理月曜にひっつけての三連休。
 海の日は元来7月20日に固定されていた。それを「ハッピーマンデー制度」とかいう「ご都合祝日」に変えたのは、木を見て森を見ない政治家たち。どうせ新成人は酒喰らって暴れるだけだし、老人はその数が有り余っているし、子どもは体育よりゲームだし…みたいなことで、「成人の日」も「敬老の日」も「体育の日」も変動制になったんじゃないか─と僕は怪しむ。当初の目的である敬いの気持ちなんかブッ飛んで、休んでいながら何で休んでいるのか判っていない。成人も海も老人も体育も、ご都合主義に呑み込まれちゃったなあ─と僕は嘆息するばかりだ。
 那須のわが村は、毎年この時期から賑わい始める。散歩仲間の家々にも子どもや孫がやって来る。
「お宅はいつから?」
「第一弾はこの連休だね。次女が二歳の孫を連れてね。20日からは夏休みに入るから、そうなると第二弾で長女一家が来ることになる」
「うちも同じ。入れ替わり立ち替わりでね。まあ、孫たちが来ること自体は楽しみではあるけれど…」
「そうそう。孫たちって、二つの喜びを持って来るんだよね」
「ズバリ、来る悦びと帰る喜び。どっちが上とか下とか言えないけどね」
「帰るときのあの解放感、正直ホッとするよね」
 この会話、テープに録音しておけば毎年使い回しが利くというもの。
 わが家の孫たちも、毎年やって来る。中学に入って部活が始まったので今年はどうなるか判らないが、七月中に来られるようならホタルが見られる。
 ホタルは庭にも来るけど、百メートルほど離れた調整池に行けば、180度の視界を舞台にしたホタルたちの一大ページェントが楽しめる。
 草むらでメスが光るのは、飛んでいるオスに自分の存在を気づかせるため。オスもまた、自分の存在をメスたちに知らせようと、点滅しつつ闇の中を逸って飛ぶ。
 草むらのメスに気づいたオスは、メスから十五センチほどに近づき、パッパッと愛の告白に入る。いま出会ったばかりで愛の告白かよ…などと、やっかんではいけない。ホタルの寿命は、成虫になってから十五日ほどしかないのだから。僕の好きな句。
     明滅の滅を力にホタル飛ぶ(正木浩一)
 彼らは、たった十五日間の中で渾身の力をふりしぼる。十六日目が無いと思えば、幻想的な舞台は悲劇とも映る。
 それにつけてもメスは凄い。人間の場合も、偉人賢人あらゆる聖人を産んだのは女だから、それを思えば納得できないわけではないけど、オスの告白を受けたメスは「待ってたホイ」とは飛びつかない。余生の長短がどうあれ、一応相手を品定めする。(アラ素敵!)と思えばフラッシュを返して求愛に応じるけれど、(あなたでは不足よ)と思ったら、十四日目でもフラッシュは返さない。
 ふられた♂も、僕たち人間の♂より立派。♀から光りが戻らなければ、ストーカー行為に走ることもなく、礼儀正しく新たな恋人を求めて飛び立つ。
 幸運にも(あなた素敵よ!)のサインを貰ったオスは、すぐさまメスに寄り添い交尾を始める。とにかく時間が足りない。急げや急げ。
 メスを求めて飛ぶホタルを、妻が少女のように戯れながら捕まえた。手の中のホタルは、囚われの身となってからもメスを求めて光っている。哀れに思ってすぐに放した。
 本当に哀れだったのは、散歩仲間のテルさんに捕らえられたホタルだ。今年初ものということで、テルさんはそのホタルを家の中に放した。電気を消すと、忘れ去っていた童心の世界が闇の中に蘇る。奥さんのチャコさんも、優雅を想い、郷愁に浸かった。…ここまでは美しい。
 明けてチャコさんは、家の中に虫を見つけた。アブやブヨには日頃から恨みがある。ガやヤスデも好きにはなれない。「虫との共存は望みませんわよ」とばかり、ハエ叩きでパーンと討った。
「はちゃーっ!」とテルさん。
 昼間のホタルはただの虫。「哀れなもんですよ」とテルさんは、自分の行為が元で昇天したホタルに対して、弔いの言葉を述べた。
「少しばかり光ったって、昼間じゃ気づいてもらえないもんね」とも言った。
 ふと僕は思った。何となくではあるけれど(僕も昼間のホタルかなあ?)…とね。