闇夜の黒い物体

 夏至が過ぎた直後のこの時期を、僕は好きになれない。梅雨だからとか、初鰹が遠ざかるからとか、そんな理由ではない。昼間の長さが日一日と短くなる。それが淋しいのだ。夏に向かっていた溌剌とした気分が酷く萎える。人生を折り返し、執着地点へ向かう気がして愉快になれない。実際には人生の折り返し点なんて、とっくの昔に過ぎているのに、未練なのである。
 では、そんな憂鬱が冬至まで続くかと言えば、そうではない。夏至から十日間ほどウジウジ思って、それを過ぎると「下がりながらも藤は咲く」って気分に変わる。肉や魚は腐る寸前が一番旨いと聞くから、「誰か喰ってくれーっ!」と叫びたくもなる。
 今は十日の内だから鬱。僕は昔、北杜夫さんに何十回と電話を入れて番組への出演を依頼した。しかしその都度、「すいません、今鬱なもんで」と、判で押したように断られた。今電話を貰ったら、僕もそう云ってしまいそうな気分。
 そんな重ったるい気分の朝、筋向いのご主人が泡を喰って飛んで来た。
「うちのが転んでハフハフハフ…」
 聞くに、奥さんが転んでどうかしたとか。この人、現役時代自分では車を転がす必要の無い身分だったらしく、運転免許を持っていないと聞いていたっけ。それを思い出し「判りました。今お宅の玄関に車を回しますから!」と返答した。
 と、そこへ「現れるべくして現れた」みたいにして現れたのが、痒いと言えばどこでも掻いてくれそうな管理事務所の鈴木さん。
「あーダメダメかねこさん。すぐ診てもらうなら救急車だあァ」
 これが実に的確なアドバイスだったことは、午後になって証明された。119番で駆けつけた救急車は即黒磯の救急病院へと向かったが、医師不在を理由に二つの病院から受け入れを断られたのだ。結局、大田原市の日赤病院まで行くハメになったと言う。それはえらいこと。僕の車だったら、その難局にどう対処出来ただろう?
 話を朝に戻す。
 救急車が去ったあと、サイレンを聞きつけた村人たちがゾロリわが家の前にやって来て、「何だ、かねこさん居るよ」などと口々の放言。救急車内に横たわっているのが僕であり、それが一番絵になる構図だと思ってのことらしい。何だか期待に添えなくて、皆さんをガッカリさせちゃったみたい。
 そこから暇人たちが談義に入る。
「自分で転んだのなら諦めもつくけど、牛にやられたんじゃ堪りませんよね」と本郷さん。
「何それ?」と暇人各氏。
「この間、この森を抜けたところでね、友だちの車が何かと衝突したんですよ」
「路上で?」
「そう。夜の九時ごろね。車の前に真っ黒いモノが飛び出して来てね、それがド〜ンと当たって屋根の上でデングり返って、ドスンと反対側に落ちたんですって。それが車より大きなヤツ」
「車よりデカイ!」
「そう、山のようなヤツ。この辺りの夜は真っ暗闇だし、ド〜ンと来た物体も真っ黒だったから、何が何やら車の主はパッパラパー。それがね、実は黒牛だったんですって。しかも二頭。友だちにケガは無かったけど、車はおしゃか。修理が利く状態じゃなかったそうです」
「へ〜え」
「警察に届けたら、この辺ではたまにあることだと言われたそうです。一応捜査はするけど、牛は「モウ、モウ」言うばかりで自白しないから、損害賠償に行き着けないだろうと言われたそうですよ」だって。
 これだもの田舎は面白い。夏至がらみの憂鬱が、少し改善されたみたい。