深編み笠のおばさん

 黒いネットを頭からすっぽり被ったご婦人が、毎日わが家の前を通る。ジャック・ラッセル・テリアという大層敏捷な犬を連れている。高低差の激しい森の往復路を、ご婦人もテリアもヒョイヒョイ進む。その足色、都会の散歩犬どもを鼻で笑うかのようだ。
 それは結構だが、合点がいかないのは黒いネット。ご婦人がどんな顔で、どんな髪型で、年齢がどのあたりで…どれもが判らない。姿勢はすこぶる良い。だから余計気になった。もしやあのネットは、他人との接触を拒むもの…と勘繰っていたら、庭で花の手入れをしていた僕に「綺麗ですね」と声を掛けてくれた。それも通りすがりの辞令ではない。花談義、野草談義を展開するに到ったのだ。こうなると、ますますあのネットの意味が知りたい。中身が見たい。
 僕は彼女のことを妻に話すとき「深編笠のおばさん」と称していた。
「あの深編笠の謎が知りたい」
「だったら訊いてみたらいいじゃない」と、造作も無きが如くに妻は言う。
「訊けるわけないだろう」と僕。だって、何か隠すべき目的を持っているかも知れないではないか。それは決して他人に公開してはいけないこと。例えば口が裂けているとか、島帰りの刺青が頬に刻まれているとか、被りと取ると溶け出してしまう「雪女」だったとか…。今生の中で口に出してはいけないことを必死に隠していたとしたら、こっちの興味一つで傷つける落とし前を、どうつけたらいいと言うのか。そんな惨いこと出来るわけがない。僕は理性の衣に袖を通し、我慢に我慢を重ねていた。
 でもそれでいいのか? 理性だけで生きるということが、真の人間の道なのだろうか? かえって人間性を失うことにならないだろうか? 大人だって昔は子どもだった。だから抑えがたい欲求もある。欲しいものは欲しい。知りたいことは知りたい。それが人間の在るべき姿であり、それこそが人間の原点なのではないだろうか?
 ついに僕は訊いた。
「あの〜う、この辺にもヤブ蚊が居るんですか?」
「この辺にはいませんね。もう少し下の広谷地辺りまで行かないと」
「それはよかった。ところで高原の陽射しは強いから、女性の肌には要注意でしょうね」
「そうなんです。夏の散歩は日陰を探して歩くようですよ」
「リードを持った上に日傘を差すんじゃ大変ですよね。…だからですか?」
「ああ、これのことですか?」と、ご婦人は黒いベールを指差した。
(ついに辿り着いたぞ!)と、心の中では歓喜の叫び。
「これは日除けにもなりますが、主たる目的はアブとブヨ避けです。刺されると凄いですよ。顔が変形して、お岩さんになっちゃいますからね。一週間は腫れが引かないし、猛烈に痒いですよ」
 ブヨの痒さは知っている。疎開先の信州で飼育ウサギの餌(雑草)採りなどさせられた折、好き放題に刺されたもんだ。それに比べれば、牛のケツなんぞでブンブンやってるアブなんか、恐るるに足らんと思っていた。だが深編笠のおばさんは、「その考えは捨てるべし」と真顔で言った。
 それと言うのも昨年のこと、何も被らず庭仕事をしていたとき、アブに唇を刺されたと言う。唇は見る見る腫れあがり、博多名物明太子みたいになってしまった。福笑いの口に明太子を乗せたイメージ。
「あんまり凄かったから、その顔を友だちに見せに行っちゃいましたよ」だと。そりゃ大胆だ。果たしてこんな大胆なご婦人に深編笠が必要なのかと、僕はちょっぴり疑問に思った。