舶来品信奉亡霊蘇る

 青空の下、ウッドデッキに腐食防止の塗料を塗った。毎年のこの作業は、デッキの木か僕たち夫婦か、どちらかが朽ち果てるまで続く。
 塗料には決まりがある。四十数軒で構成されているビレッジ指定の舶来品を使わなくてはいけないのだが、この「舶来品」という言葉に僕は弱い。何ゆえのコンプレックスかと言えば、そこには悲しい過去が横たわっている。
 戦後間もない頃、僕たち貧乏人の子どもは、進駐軍の兵士と見れば群がって、「ハロー」「ハロー」を連発した。「ハロー」の意味を知らずに発する奴もいたが、その連中も、自分が進駐軍にへつらっていることぐらいは知っていた。幼児が大人に、それも外国人に媚を売る。情けないことだけど、これをやると舶来品が得られたのだから仕方がない。
 舶来品。それは凄いものだった。体がとろけて無くなりやしないかと心配するほど美味にして魅惑に満ちたチョコレート。感嘆の心を伝え切れない甘美なキャンディー。口の中に白クマがやって来たかのチューインガム。そのどれもが進駐軍のポケットの中にあった。
 僕に最初にキャンディーを呉れた人は疎開先の信州に来た軍人さんで、その名をウィリアム・ケリーと言った。キャンディー一つのことで、なぜ未だにその名を覚えているか不思議に思うが、それこそが、想いの丈というものだろう。
僕が舶来品に弱い理由は、もう一つある。
 小学二年の頃だったか、東京を大雪が見舞った。当時のわが家は、大田区多摩川大橋に近い東京第二京浜国道沿いにあった。その雪の夜、わが家のボロ戸を叩く音。「はいはい」と親父が起き出し戸を引き開けると、闇の中に立っていたのはヒグマのような大男。うちの親父は背丈が足りなくて徴兵検査に落ちた人だから、その差に驚き怯んでいたら、男はのっそり土間に入った。「あっ、ちょっと、ちょっと…」と慌てる親父。「ペラペラペラ…」とやり出す男。どっちの言葉も通じない。男は親父を外に引っ張り出した。「これを見てくれ」と言うわけだ。車が雪に埋まっていた。
 やっと状況が掴めた親父は、日本人の誰もが知ってる英語を使った。「オーケーです」と。
 男は親父の手を握り「ペラペラペラ…」と言ったあと、車に向かって大声を上げた。すると車の中からゾロゾロと、男と女が二人ずつ。親父にとっては想定外だ。「えーっ、こんなに…」と言ったけど、こうなってからでは仕方がない。
 部屋は六畳一間きりだし、客布団など一つも無い。おまけに雪で停電中。貧乏夫婦はローソクを立て、僕と兄とを押し入れに押し込み、家族全員の布団(親父分、おふくろ分、僕たち兄弟分の計三組)を五人のために提供した。三組を川の字にひっつけて、男女五人をメザシのように並べて寝かせる。「寒い、寒い」と抱き合うメザシは、男三人、女が二人。♂♀♂♀♂の順だから見てはいけない光景なのか、おふくろが押し入れの襖を半分閉めた。
 行火も無ければストーブも無い。少しでも寒さを癒そうと、親父が七輪に火を熾す。「早く熾きろ」と団扇パタパタ。煙モクモク、咳がゴホゴホ。メザシを燻製にする気かと思ったりして…。
 突然「キャーッ!」と女の悲鳴。七輪で暖まった杉皮ぶきの屋根の雪が解け出して、滴となって女の顔に落ちたのだ。慌てて洗面器やらバケツを持ち出し、その場が何だか判らぬ騒ぎ。
 やっと落ち着きを取り戻したかに思ったら、再び女の金切る悲鳴。今度は、寝ぼけた僕が押し入れの上段から落ちた音に驚いたのだ。
 朝、雪は止んでいた。親父は車を雪の中から掘り出し、国道への導入路も彼らのために除雪した。
 一週間後、わが家にそのときのヒグマがやって来た。一人では抱えきれないダンボール箱を、二人掛かりで担ぎ込んだ。中に入っていたのは、そのときはラベルが全て英語だから判読出来なかったが、ハム、ソーセージ、ベーコン、コンビーフ、パイナップル缶、チョコレート、ガム、クッキー、キャラメル、ビスケット…。見たことも無いものばかりだから、英語が仮に解ったとしても、そもそもそれらが何であるか理解出来なかっただろうなあ。
 おふくろは、それらの多くを近所に配った。疎開帰りの貧乏世帯を世話してくれる人が多かったから、結構なお礼にすることが出来た。僕には「俄か友だち」が増えた。魂胆ありありの連中にも、おふくろは笑顔でおやつを配ってやる。僕はそれを快しと思わなかったが、おふくろのその行為は、僕のその後にある程度の「教え」を残した。
 舶来品のペイントから、話がひどく飛んだので本線に戻す。ウッドデッキの塗装は玄関周りから始めたが、途中でトイレに行きたくなって気がついた。
「ありゃ、ここから塗っちゃったから家に入れない!」
 夫婦してこの始末。ある年齢を迎えると、毎日何万の脳細胞が死滅すると聞いたけど、あれは嘘ではないらしい。まあいいさ。踏んだら塗り直せばいいことさ。ボケた分だけゆっくりでいい。「便利さとは速さのこと」と天声人語で読んだ。速さを競う現代人は、縄文人の四十倍の速さで生きているという。そりゃストレスだわ。ゆっくりがいい。ゆっくり塗ってゆっくり飲もう。その方が、どんなにビールが旨いことか。