変なお相撲さん待望す

 大相撲夏場所稀勢の里が初日から13連勝。もしや34場所ぶりに国技館に日本人力士の掲額なるか─と期待の向きも多かったろう。しかし結果はボトンボトンとタドンが最後に二つ並んで「また今度いつかね」ということになった。挫折なくして栄光なし。涙の量だけバネになる。稀勢ちゃん、僕はいつまでだって待ちますよ。焦らなくていいですよ。
小学生の頃の僕たちの遊びの中心は相撲と野球だった。ことに相撲は道具要らず。半径1.5m程の円さえ描ければ出来たから、昼休みの校庭は、あっちこっちに土俵の輪が栄えた。冬場は暖たたまったし、夏場は裸で遊べたし、いや結構。貧乏人向き高級スポーツとして僕は相撲が大好きだった。日本にテレビが誕生したのは昭和28年のこと。ほどなく大相撲中継も始まったが、当時のわが家に、そんなものが有ろうはずがない。年四場所の実況を、僕はラジオで全て聴いた。(因みに、わが家がテレビを買ったのは、それよりずっ〜とあと。僕がテレビ局に就職してから尚数年経てからである。)
 多分クズ鉄拾いでカネを工面したと思うが、その頃僕は、何度か相撲部屋巡りをやった。横綱栃錦の背中はブツブツだった。大起の巨漢を見たときは(象より大きいんじゃないか?)と本気で思った。まだ実物の象を見たことがなかったもんでね。大内山の稽古マワシからは、縮れ毛がモジャモジャはみ出ていて、何だかひどく(えらいこっちゃ!)と思ったものだ。
 隣町のチビッ子相撲大会に飛び入りで出場したのもこの頃だ。結果は驚きの優勝。商品の大きなスイカを鼻高々持ち帰る道々(オレ、将来相撲取りだろうか?)なんて思ったりしたものだ。
 そんなこともあり、中学校では相撲部に入った。稽古は放課後だ。土俵に上がる前に校庭のランニング。もちろんフンドシ一本で。二年生になった頃、一級下の女の子が気になり出した。そうなるとフンドシ姿は気恥ずかしい。その子の前をオイッチニ、オイッチニ。仲間に隠れてオイッチニ、オイッチニ。「おまえ、何丸まって走ってるの?」なんぞと言われたりして惨めなドン底。「されば」とあっさり退部した。
 退部してはみたものの、一旦見せてしまったフンドシ姿はおぞましい。トラウマですかね。ヒトは歌いヒトは躍ろうとも、わが心の内は闇。とうとうその子と一言すら交わすことが出来なかった。夢は砕けて夢となり、時は流れて想い出となる。
 話が相撲からすっ飛んだので戻す。成人後の僕は、仕事で懇意となったドイツ文学者の高橋義孝先生に、よく大相撲観戦に連れて行ってもらった。先生は横綱審議会の委員長も務めていたので、先生の席は相撲協会が用意した。先生は個人としても年間席を持っていたので、僕が座るのはそちらの席。正面と向正面に別れてしまうから、観戦中は会話が出来ない。だから打ち出し後は先生馴染みの料理屋へ。相撲談議に花を咲かせて気が付けば、徳利七〜八本転がっているのが常だった。
 あんなに楽しかった大相撲が、やれ八百長だリンチだと、それが少し収まってからも、法人改革は遅々としている。
 貴乃花の昇進の頃からだろうか、知りもしない(と思える)四文字熟語を並べるようになったのも、何だかちょっと嫌だねえ。日本人力士が外国人力士にかなわないというのは、身体的能力に起因するというのであれば、それは仕方ない。だけどね、大起のさば折り、出羽湊のけたぐり、信夫山や鶴ケ嶺のもろ差し、初代若乃花の揺り戻し、琴ケ浜の内掛け、起重機と言われた明武谷のつり出し、最近で言えば舞の海の八艘跳び…みたいな、「この人にしてこの技あり」の醍醐味が少なくなったのが淋しい。高見盛のパフォーマンスも、実力が伴えば面白い。変なお相撲さん、ゾロ出て来ないかなあ。