ああ感動!

 以前、千代田区の中学校に招かれ、全校生を前に「感動しよう!」というテーマで講演した。「中学生諸君、心して感動しよう。花の香り、鳥のさえずり、流れる雲、寄せる波、感動の種はどこにでもある。それをしっかり見詰めることが出来るなら、羽ばたく自分が発見できる」みたいなイントロから入って九十分。
 長女も同行し最後列で聴いていた。本人が希望しての同行だったが、僕も娘に聴かせたかった。娘は既に既婚者だったが、僕からすれば娘は娘。「これがお前のオヤジの考えだよ」と、そんなことを伝えたかった。
 僕は、生きるためには感動が必要だと思っている。それが苦に立ち向かう勇気を生み、夢を引き寄せ、喜びをもたらすだろうと思っている。人生には苦しいことがごまんとある。その艱難辛苦も、受け止め方には個人差がある。他人が訊いたら笑い話で済むことも、本人にすれば「ドン底だわよ」ということもある。
 次女が高校生だったときのこと。バイトから戻った彼女は、その日、やけにテンションを高くしていた。その乗りのまま「今からシュウマイを作るからね」と宣言した。「こりゃ、どうした風の吹きまわし?」と思いつつ、期待が怪訝を超越した。
 二時間ほど奮闘の末、次女手作りのシュウマイが食卓に並んだ。
「まあ、美味しそう!」
「うん、うまそうだ!」
 実際は不揃いでも「見栄えもいいしな!」と付け加えたのは、率先して厨房に立ったことへの賛辞である。人間たるもの、褒められて嬉しくないわけがない。本人もニコニコ、三人揃って「いただきま〜す!」で和気藹藹。
 妻と僕は一箸ごとに「うまい」「おいしい」と褒めそやす。味より何より、こうしたことが日常化して欲しい一心だ。(こう書くと不味かったみたいに思われそうだが、そんなことはない。そこそこに美味かった)
 和気藹藹が一変したのは、シュウマイの半分が胃に収まったころである。娘が箸を置き、突然泣き出したのだ。
 僕たちは慌てた。こちらの言動に不適切はなかったかと脳内ビデオを再生させた。しかし、思い当たるフシがない。オロオロしながら宥めすかし、やっとこさ、涙の原因を訊き出した。
 それはケーキ店でのバイト中の事であり、それも被害者ではなく加害者だった。笑ってしまいそうだったが、嗤うのは腹の中だけ。顔は必死にマジを装い「うんうん」と頷きながら訊いてやった。その全容。予約注文を受けて作った誕生ケーキの横っ腹に、誤って指を突っ込んでしまったのだと言う。(どうしよう!)と案じるうちに注文主が来てしまった。誕生ケーキは名入りだから代替がきかない。仕方なく穴あきケーキを、素知らぬふりして渡してしまった。
 さあそれからだ。怒涛の波が胸中を襲う。でも、恐ろしくて事実を店長に明かせない。そのまま帰宅してしまってからの唐突と思えるシュウマイづくりは、呵責の心を紛らわそうとした結果である。
 しかし心は紛れなかった。シュウマイのたねを練りながらも、頭の中は「穴あきケーキ!」の大合唱。むべなるかな。事件は終わっていないのだ。むしろこれから始まるのである。相手様の誕生パーティーは夜だろう。ケーキの蓋が開くのも夜。「あら何よ、この穴!」。そんな時間がコチコチ迫る。
 シュウマイは完成した。食卓に並んで食べ始めたが、僕たちとの会話は上の空。時計を見れば午後七時。店長からの叱責の電話はいつ鳴るのだろう? とうとう耐え切れずに泣き出したというわけだ。
「何だ、そんなことか」と言ってはいけない。笑い飛ばしたら尚いけない。それが彼女の切羽詰まった心なのだ。
 その夜、店長からの電話は無かった。その後のクレームも発生しなかった。あとでよく訊けば、「指を突っ込んだ」という表現が間違いだった。指が触れ「数ミリの窪みが出来てしまった」のだと言う。
 要するに人の悩みは千差万別。自分の抱えた悩みの量が、どれほどのものかを自分では量れない。だったらそれを量るより、心を強く持つことで、その困難を乗り切るしかない。回りくどい言い方になったが、その困難を乗り切る力の源となるのが、「感動を知る心」なんだと僕は思っている。
「感動」とは、心を癒すこと。那須の早朝、ベランダにリスが来た。どこからタネが飛んで来たのか、庭の片隅で春リンドウが咲き出した。U字型磁石のように腰の曲がったおばあさんが、一見元気そうに見えるおじいさんを車椅子に乗せて散歩している。大量のカメムシと日々闘っている人が居る。みんな感動だ。感動は苦を相殺する。
 それにしても…と思うことがある。最近の僕は感動し過ぎ。小さなことにも胸を熱くし、矢鱈と涙を零したりする。先日は妻と『舟を編む』という映画を見たが、随所で涙が出て弱った。童謡の『春の小川』をじっくり聴いただけで涙したこともある。何なんだろう? あの歌詞のどこに泣くべきところがあるのだろう? 最近の僕は変だ。