味覚が崩壊する!

 山道のヘリや野っぱらのいたる所で、フキノトウが惚けている。以前はそうなる前に奇麗サッパリ採られたものを、嗚呼原発は恐ろしい。
 フキノトウには想い出がある。「あっ、フキノトウだ!」と大喜びで持ち帰り、料理する段になって「これ、本当にフキノトウだろうか?」と妻共々首を捻り、結局のところ「庭のキノコを食べて死んだおバカさんの例もあることだし」と、棺桶の中に入ってまで嗤われる恥を恐れて捨ててしまった。あれは本物。惜しいことをした。
 散歩仲間の平井さんや小野口さんは、食べられると思ったら即食べてみる野生派タイプだから、無事だった場合において憂いを残さない。一方の僕たち夫婦は、食べられると思ったら、まず他人に食べさせてから、その無事を確認して食べだすタイプ。これだもの、大事に至らない限りにおいて憂いの連続。二人ぼっちでは生きていけないタイプなのだ。
 以前妻が、スーパーから仕入れたフキノトウで〝フキ味噌〟を作った。これが旨くて「やっぱり旬のものはいい」と悦に入っていたら、数日後の新聞が「それは旬ではない」と、いとも容易く否定してくれた。記事によれば、最近は何から何まで温室野菜が主流となって、〝採る〟から〝育てる〟時代に入ったのだと言う。「365日OKよ」と、色気も何もありゃしない。
 例えば、トゲトゲの木の先っぽに出るタラノメ。春にはその木を求めて山に入り、ほど良く育った新芽を摘み取る悦びがあった。「自然の恵み」という言葉が自然と出る新芽狩りだったのに、いまではそれもビニールハウスで作るのだと言う。あんな背丈のある木をハウス内で育てるなんて、何と難儀なことだろう…と思ったら、その心配も無いと言う。十センチほどに刻んだ駒木を育苗箱にギッシリ敷き詰め、その駒木に発芽させるだけなんだと。「マジかよ」と言いたくなった。
 だってそうでしょう。山菜とかってモンは山野に自生していて、それを「あっ、いいもの見っけ!」みたいな感覚で採取して食卓に供する植物の総称だったはずですぜえ。
 青果市場一筋50年の友人によれば、市場に出回るタラノメ、フキ、ウドなどは、その八十%以上が栽培物なのだとか。こんな状態が続いたら、自然の恵みというものが、どこで、どんな姿で育つものか、な〜んも知らん人間ばかりになってしまうじゃないですか。先日のテレビに「ダイコンって、土の中で育つんですって?」と真顔で訊くバカタレ(ント)が出ていたが、こんなレベルが一般化してしまったら、つくしん坊に感動する子が居なくなる。タラノメをウオノメと勘違いして「気持ち悪り〜ィ!」なんて言い出しかねない。
 かの市場の友人が言う。「市場に出たタラノメなどの山菜は、主に料理店に向けられるが、天然ものは黒づんでいたり、アクが強かったりするから敬遠される。栽培物を仕入れて、客には天然ものと言って出す。客は『やっぱり天然ものは旨い』と言いながら栽培物を喰っている」と。
「しょうがねえなあ」と僕は嘆息した。そもそも天然ものに対して「アクが強すぎる」とは何だ! アクこそ、その食べもの「そのもの」ではないか。ニラは臭いもの。フキノトウは苦いもの。カラシナは辛いもの。それがその食べものの特質ではないか。
味覚の幅は年々狭まり、やがては幅を失い統一化され、ユウカリだけでいいコアラ、笹さえあれば〝ご機嫌パンダ〟みたいに、「インスタント・ラーメン味一本でいい人間」になりやしないか。…嫌だね、暗い話は。
 その点、僕の孫はいい。足元の草を指して「こいつはセンブリと言って、とてつもなく苦い薬草で、飲み過ぎたときに、こいつを齧ると胃が喜ぶんだ」と言えば、まだ酒も飲めない中学生なのに、「では、ちょっと」と口に運んで「にげーっ!」と体験。「こいつは口が曲がるほど辛いんだ」と言うと、ハバネロの切れっぱしを口に運び「かれーっ!」と投げる。とにかく体験してみる。素晴らしいことだと思う。でも、こうして何でも食べさせてしまっていることを、僕は孫の母である娘には言わない。言いたくない。だって娘に怒られるなんて、老人っぽくて嫌だもの。