安吾のさるまた

「十年ひと昔」と言うように、社会は刻々様変りする。好い方向への変化もあろうが、僕たちの年代から見ると、淋しい変化が目について困る。 
 孫を持つ身からすると、散歩中、土を蹴って遊び捲る子どもたちの姿を目することが少ないのは、じつに淋しい。「子どもを体験せずして大人になってしまう子どもたち」─を想像してしまうからだ。人は皆一冊の本。頁を捲れば、その本でしか得られない大切なものが載っているはず。それこそが人生の財産だと思うのだが、今の子どもたちは落丁の一冊をつくっているかのように見える。…などと年寄りらしく〝愚痴り歩き〟をしていたら、これまた年寄りらしく、夕陽の中まで遊んだ溌剌の日々を想い出した。
 学校がある日は下校時から、日曜や夏休みは朝っぱらから、僕たちは、わが家のすぐ前の神社境内をホームグラウンドとして遊び捲っていた。遊びの大抵は野球である。
 わがチームは十二人。ほとんどが六年生だが二人ばかり下級生が居た。その一人はエラーと三振のチャンピオン。試合に出せる状態ではなかったが、僕たちは一度は打席に立たせたし、一度は守備にも着かせた。平等とか博愛とかではない。やつの家にテレビがあったからだ。そもそもチームの一員として迎え入れたのも、狙いはその一点にあった。
 テレビはその前年二月にNHKが開局し、八月に日テレがあとを追った。昭和二十九年は開局一年の年だから、僕の知る限り、町で視聴が可能なテレビは二台だけだった。一台はそば屋で、あと一台は新聞販売店。 
 そば屋のテレビは、そばを喰わなくては見せてくれない。それは当然だろうが、プロレスや野球中継のある日は十五円のもりそばやかけそばがあるのに、三十円以上のものを注文しないと見せてくれないという強欲さ。もう一台のテレビを持つ新聞販売店も、同店の新聞を取っていないと見せてはくれない。
 わがチームの三振王は、その新聞店の御曹司だ。こいつをチームに迎え、かつ試合にちょっとだけでも出してやることで、僕たちは力道山を応援では、赤バットの川上に声援を送くることが出来たのだ。
 さて、神社境内での野球に戻るが、試合はしばしば通行人のために中断した。境内が駅に通じる通路だったからだ。しかしまあ、こっちが不法占拠なのだから、通行人による中断は仕方がない。
 困ったのは、ときどき物干し竿を振り廻す乱入オヤジが居たことだ。浴衣ははだけ、さるまた丸出し。意味不明の喚きを上げて、竿をビュンビュン振り廻す。とにかく怖かった。このオヤジが来ると、僕たはグローブもパットも投げ出して逃げた。
 そこから時が過ぎて二十歳の頃、僕は坂口安吾夫人が書いた『くらくら日記』という本を読んだ。偶然のことだったが、読みながら「あれっ?」と思った。僕の町らしき情景と、あのオヤジそのものの行状が綴られていたのである。僕は母に尋ねた。と言うのも、母は当時、町会費の集金係をしていたからだ。
「以前、どこどこの角から二軒目に住んでいて、物凄いオヤジが居たけど、その人の苗字を憶えているかなあ?」
「ああ、坂口さんだね」
 母は苗字を憶えていたが、それが安吾であるとは知らなかった。とにかく、あの狂乱男が安吾だったのだ。
 当時のチームメイトが先ごろ十数年ぶりに集った。二人はすでに亡かったが、一人は大阪から六十年ぶりの再会となった。安吾の話がそこでも出た。人との出会いは、怖い人でも時空の中で懐かしくなる。そんなこともあるんだから、子どもたちよ、家でピコピコばかりやっていないで、外の空気に触れるがいい。昔の自分に会うことだって、たくさんの仲間が有ってのことなのだから。