うじゃうじゃ怖いもの

 ガス検針のおじさんがやって来て「いゃ〜あ、怖い恐い」と言った。
「検針しようとするとサル軍団が周りを取り囲んでね、一斉に歯を剥くの。背中に子ザルなんか乗せちゃってさあ」
「子育て中は防衛本能が働いて、気が立っているんだろうね」と言ったら、「子育てだか何だか知らないが、こっちは商売上がったりだ。鉄パイプでも持ち歩かなくちゃ検針どころじゃないよ」と大層おかんむり。見たとこ僕より若そうだし、体はこっちよりふた回りは大きい。加えて地元の山育ち。その人が、本当にサルを怖がっている。
 わが家から200メートルほどの別荘族のおじさんが、花壇に札を立てた。「丹精込めた楽しみを奪うな!」とある。咲く寸前のユリの蕾を、残すところなくもぎ取られたらしい。人間の仕業と思っているようだが、僕たち散歩仲間は知っている。
「あんな札立てたって、サルは読まないよね」
「読めたって読まないさ。エテ公だって、先住民としての誇りが高いんだから」
 ここから散歩仲間での〝怖いもの談義〟が始まった。
「サルより怖いのはヘビだよ」と言ったのは平井さんだ。
「だってさあ、うちの庭でのことだけどね、カエルがピョ〜ンと大ジャンプしたと思ったら、そいつを追ってヘビが俺の背丈ぐらいの高さを飛んだんだ。ピーッと一本の矢になってだよ。もうびっくりしたね」
「でも、怖さで言ったらクマだなあ。大沢さんの奥さん、その先でバッタリ出会ったって。大型犬のリトリバーを二匹連れていたからあっちが逃げたらしいけど、九死に一生だったってさ」と宮本さん。
 神山さんの奥さんは「ブヨが怖い」と、夏は黒い虫よけベールを頭からスッポリ被っている。事情を知らない頃は、怪しい何かの伝道師かと思ったほどだ。わが妻もブヨに顔をボコボコにされ、以来、激しくブヨを憎んでいる。女の命は美であって、本物の命は、美よりも下位に位置するらしい。
 すぐ近くにもんじゃ焼きの店があって、ときどき僕も利用しているが、そこのおやじさんが「お宅はカメムシ出ませんか?」と言う。
「はて、いまのところカメちゃん来訪の記録がない」と答えると、「こっちはうじゃうじゃですよ。どこから入るんだか、家の内側から網戸にへばりつくんです。何が怖いって、そいつを一匹でも潰そうもんなら、その日一日臭い臭い。こうやってね、潰さないで捕まえて焼くしかないんです」
 おやじさんはそう言って、ガムテープを両手で張り、ピタンピタンとカメムシ逮捕の実演をして見せてくれた。
「この間のお客さんは、那須には怖いものが三つあるって言っていましたよ」と言ったのは、もんじゃの奥さん。
「それって、クマ、サル、ヘビ?」と訊いたら、「違いますよ。カメムシと風と冬の寒さですって」
 成程、風の凄さは僕も知っている。山では台風より「春一番」とか「野分」とか「木枯らし」といった平時の強風、突風の類の方が恐ろしいのだ。大風が吹き荒れ出すと家まで揺れる。妻など、「山なのに船酔いしそうよ」と、本気で冗談みたいなことを言う。二人掛かりでしか動かせなズッシリとしたわが愚犬のケンネルを、ドライバーもノコギリも使わず、一夜にしてバランバランにしたのも、山を駆け降りて来た風小僧だった。山にはうじゃうじゃ怖いものがいる。そんなスリルが魅力なんだなあ。