真の師なのかも…

 中学三年時のクラス会の誘いが届いた。五月だという。このクラス会は、昭和33年の卒業以来55年を経て初めての開催。(何故今頃になって?)と開封時は思ったが、改めて考えてみればそれほど謎めいたことではない。ジャンケンで負けた者から墓場に入る年代となったから、全滅前に一度、互いを笑い合おうということだろう。対面の中で想い出す顔があるかどうか期待はできないが、「古雑巾の集まり」みたいで面白そうだから出席通知を出した。誰一人判らなかったとしても、〝むかしの自分〟には会えるのだから…。
 さて、その東京・大田区立矢口中学校。勉学嫌いな僕だったから、想い出となるものは殆ど無きに等しいのだが、強烈なイメージを今に残してくれた先生が一人居る。
 その先生を、僕たちは「小西」と呼び捨てていた。顔じゅうが無精ひげ。ネクタイは春夏秋冬醤油で煮しめたようなもの一本。教壇でよく屁をたらした。これであだ名が無いのが不思議であったが、なぜだか「小西」と呼ぶのは通りが良かった。
 小西は社会科の教師だった。この人「起立!」「礼!」の儀式をやらない。いきなり「第一問! それは植物です!」などと叫びながら教室に入って来る。そして「ヘイ・ユー」と、生徒の一人を指名する。指名された生徒は「桜」とか「松」とか、何でもいいから植物名を挙げる。「ノン! 第二問。それは食べられます」と続く。次に指名された生徒が「ナス」とか「カボチャ」とか、食べられる植物名を挙げる。そんなやり取りで五問あたりまで来ると「それは春の七草です」と、だいぶ正解に近づく。ここで「タンポポ」などと答えようものなら、それは春の七草ではないから「パチンコ」という名のお仕置きにかけられる。パチンコとは、中指にかけた人差し指をパチンとおでこに弾かせるだけなのだが、これが年季もので半端ではない。皮膚が腫れて痛みが残ることもある。「第七問。その代表品種は練馬、守口、桜島…」と、答えの「ダイコン」に辿り着くまで二〜三人のおでこが腫れるけど、親から文句の出る時代でも無く、僕たち生徒は笑ってそれを楽しんだ。
 小西は毎朝、「自転車オートバイ」と呼ぶ小型モーター付き自転車で登校して来た。
 やつが来ると僕たちは、指を拳銃に見立ててバンバーンと撃った。すると小西も「ちょこざいな!」と叫んで、指拳銃で応戦して来る。バンバーンと撃ちながら「パカッパカッパカッ」と蹄の音を挟み込むのは、愛馬にまたがっているつもり。ジョン・ウェーンか何かに成りきっているのだ。
 あるときやつは、愛馬を走らせつつも二丁拳銃の暴挙に出た。そして小西らしい結果を招いた。いや、見事な落馬であった。
 その日の昼過ぎ「ミイラ男」となって病院から戻った小西だったが、根性たるや恐るべし。翌朝、頭をぐるぐる包帯巻きの月光仮面スタイルで、バンバンバーンと僕らに襲いかかって来たのである。僕たちは敬意を表して、バタバタと道端に倒れ込んだ。
 あるとき放課後の講堂から、見事なピアノ曲が流れて来た。誰かが「ショパンだ」と言った。
「誰だろう?」
「覗いてみようぜ」
 扉を開けると、魅惑の奏者は小西だった。
 またあるとき、講堂の裏から大人の会話が聞こえて来た。英語を話している。英語を話せない英語教師ばかりの時代だったから、奇異に感じて覗いてみると、小西が英語教師に「英文法の何だやら…」を説いていた。
 その年の大運動会は、強風の中だった。来賓代表が壇上で祝辞を述べている最中、ランニングシャツにサンダル履き、腰手ぬぐいの男が演壇前に現れて、バケツの水をピチャピチャ撒き出した。これには教師陣、来賓、父兄、そして僕らも口をあんぐり。異様な空気が一瞬流れた。
 小西。存命なら百歳を超しているだろう。担任でもないこの教師が、僕の想い出のポケットの中にあって、今も何かと活躍してくれている。小西をモデルにした人物は、僕の書きものに多く登場している。
 一昨年は、所属する市民劇団の公演用に『魚太の海』という戯曲を書いたが、そこに登場する教師は、まさに小西そのものであった。さいたま市民会館での公演では、僕自身がその役まで演じてしまった。
 今でも呼び捨てている小西だが、僕が「変化」や「勇気」を望むとき、小西は、しばしば脳裏に現れる。「こんなとき小西だったら…」とか、「オレもあの人みたいに…」とか、困難に立ち向かうときの力となってくれている。
 僕は思う。「もしやこの人、僕の人生の中における真の師なのかも知れない」─と。呼び捨てを改めるつもりはないが、尊敬の念は止むどころか年々深みを増している。