心を青春に置き換える

 那須街道沿いの植木屋で苗木を何本か買って来た。植える段になって、そのうちの一本が何の木だったか忘れてしまった。アイウエオを「ア」から「ワ」まで頭の中でなぞってみたが、求める名前は出て来ない。思案の最中、散歩仲間でもある『歩く草花事典』みたいな姐さんが通りかかったので、「ねえねえ、この木何て言う木?」と尋ねたら、「判りませんよ、そんなの」とにべもない。そりゃそうかも…。苗木じゃ、花も実もないもんね。失念のまま、とにかく植えたけど、以来、それを見るたび「何だっけ?」を繰り返す日々。これって、経験してみないと解らないことだろうけど、相当にキツイ。
 ところが、世に言う「ショック療法」の有効性を確認する機会がやって来た。それは、デッキでビールを飲んでいたときである。ポツンと頭に何かが落ちた。「何だろう?」と手をやると、ベチャッとした好ましからざる感触。白っぽい練りものは…。
「ヒィーッ! 鳥の糞じゃわい!」と叫んだ途端に、脈絡もなく「あっ、ロウバイだ!」と、あの木の名前を思い出した。
 このとき頭に糞を降らせた鳥の行為は許すとしよう。あれは医療行為だったのだから。もし、このままあの木の名前が思い出せなかったら、木が成長して花を咲かせ実を結ぶまで、正体不明の身内を持つところだった。「桃栗三年柿八年、梨のバカヤロウ十八年」と言うけれど、結実まで十八年もかかった日には、冥土が先になってしまう。いやはや、ロウバイには狼狽した。
 こうした忘却現象は、心の老化によるものだろう。気分を若返らせる必要がある。そう考えた僕は、妻を誘って千本松牧場のサイクリングコースを走ることにした。
 一周四キロ。日常の巷を離れた自然美の中でペダルを漕げば、気分はおのずと若返る。眼前に広がるのは、映画『青い山脈』の一シーン。口を突いて飛び出すのは、小坂一也のサイクリングの歌。
 ♪ みどりの風も 爽やかに 弾むハンドル 心も軽く
   サイクリング サイクリング ヤホーヤホー
   青い峠も 花咲く丘も ちょいとペダルでひと越えすれば
   旅のツバメも ついて来る ついて来る
   ヤホー ヤホヤホヤホー
 こんな歌を唄いながら、古希のじいさんが快適に走る。…こんなことを書くと気持ちが悪くなって、プチッと閉じちゃう人もいるかも知れないなあ。だけど、果てしなく老いぼれだと思っている年齢に自分が達してみれば解るだろうさ。ジジイだって、情景によっては燃えるのだ─ということがネ。
 この日乗った自転車は二人乗りで、僕が前、妻が後ろ。これだと妻の乗り姿も容姿や年輪も、僕からは見えない。だから後ろに乗っている人を想像上、誰かに置き換えることが出来る。思うのは勝手で、口にしなければよいことだ。まあしかし、他人に置き換えるのもナンだから、妻は妻でも、ん十年も遡った妻に置き換えてしまおう。新婚ちょっと前の、一番いいときのあの子に─。
 幸いなことに、前席に座る自分の老いぼれ顔は自分では見ることが出来ない。なればこの際、こっちも青春真っただ中の〝かねこくん〟に置き換えてしまおう。ここで必要なのは、外部からの目を「羨望の目」と捉えること。(みんながオレを羨んでいやがるぜ)と、誇らしげに胸を張るのだ。引っ込み思案は老化の敵。謙虚なんてクソ喰らえだ。
 後ろで僕の尻を見ている妻は、眼前〝老化の現物〟を見て走るわけだから、青春に置き換えられるわけもなし、嗚呼お気の毒。
 自転車を颯爽(?)と走らせ、心を存分青春に遊ばせた僕だったが、チャリを降りたら、あらまあ、魔法の解けたシンデレラ。気が付けば、後ろ手を組んで歩いている。遺憾なり。古希を、喜寿や傘寿に置き換えられぬよう、また「色めく心」を忘れぬよう、吾は吾に精進を誓わねば。