ハトの怨念

 那須は雲ひとつない快晴。庭から茶臼岳が手に取れそう。
 お隣のご夫婦と立ち話をしていたら、ド〜ンと空からドデカイ物体が落ちて来た。目の前僅か一メートル。ちょっとずれていたら、この日記は天国で書くハメになったろう。「何ごとぞ!」と物体を見れば、体長五十センチはあろうかという何とも美しい♂のキジ。落下の瞬間、断末魔の眼をカッと見開き、すぐ痙攣して絶命した。
 上空を見ると五羽のカラスが激しく乱舞し、ギャアギャアと叫んでいる。解するに「やいこら! そいつはオレたちの戦利品だ! 横取りするなバカヤロウ!」ぐらいに言っているらしい。
「こんなものいらんぞ! さっさと降りて持って行け!」と怒鳴り返してやったのに、やつらときたら、とんと降りずギャアギャア騒ぐばかりである。仕方がないから別荘の管理事務所に電話を入れたら、地区担当の鈴木さんが飛んで来て「あら〜あ、こりゃまた立派なオスだわ。今夜はギジ鍋だ〜ァ。ケッケッケッケケ〜ッ」と、独特の笑いを残して担ぎ去った。
 上空のカラスは、いよいよ怒り狂っている。カラスは執念深いと聞くけど、復讐するなら僕ではなく、鈴木さんの方にしてもらいたい。
(いや、待てよ?)と僕は思った。あのキジがやつらの戦利品なら、鈴木さんが担いで行ってしまった今、この上空で騒いでいるのは変ではないか? 賢いカラスなら、キジを担いだ鈴木さんを追って然るべきではなかったか?
 ここまで考えたとき、僕の頭に恐ろしい疑念が湧いた。カラスどもが狙ったのは獲物としてのキジではなく、僕の命だったのでは…と。あいつらは那須ではなく上尾のカラスで、上尾から差し向けられた僕に対する刺客ではなかったか…と。
 なぜそう考えるかと言うと、その少し前、僕は上尾で心成らずも罪を犯していたからである。
 その罪とは─。朝、雨戸を開けると、庭のカエデのふところ枝にハトの巣が出来ていた。そこはまずい。真下の縁側に布団が干せなくなる。そう思った僕は、まだ完成途中らしき巣を取り除かせて貰うことにした。幸い親バトは留守。むろんタマゴはまだ無い。だから〝悪は急げ〟とやっちまった。気になったのは、表の電柱からカラスが一羽、ジッと僕の解体作業を見ていたことだ。
 次の日、雨戸を開けて驚いた。巣を取り除いた枝の真下に、タマゴが一つ落ちていたのだ。拾い上げたら割れていた。巣の無い枝で産卵した結果だろう。酷い罪悪感に襲われた。
 そのまた次の日、雨戸を開けると、巣のあった枝に、ハトが一羽うずくまっていた。産卵の姿勢とも取れたから(えっ、また産むの?)と思ったら、目つきが違う。ガラス一枚挟んでいるが、手を伸ばせば届く距離。そこから僕を睨む目は、怨念と憤怒に燃えていた。
 次の日も、雨戸を開けたらハトが居た。その次の日も、更にその翌日も、開ければ飛び込む「怨めしや〜あ」のあの視線。表の電柱に目を移せば、そこに居たのは、巣を取り除くときに見ていたと思えるあのカラス。こいつも、黒いくせして白い目で、僕をジィ〜ッと見つめていた。
 恨みのハトは、一週間でいなくなった。だが「やれやれ」と思う時間もあらばこそだ。翌朝は騒々しさで目が覚めた。何事だろうと窓を覗いてドタマゲタ。電線びっちりカラスである。北の窓に走ってみたら、こっちの電線にもカラスがびっちり。上空を見たら、無数のカラスが舞っている。
 カラス軍団の襲来は三日続いた。飛び立って行くカラス軍団を見送って、ようやく平和が訪れると思ったら、翌日ハトが舞い戻った。そして南の庭のナツツバキに、新たな巣を作ったのだ。しかしまあ、そこならさして支障はない。懺悔の想いもあったから、無事の産卵とヒナの誕生を祈った。
 ところが、ハトはそこにタマゴを生まなかった。生まないばかりか、その行動は奇妙である。次の日には、東側のユスラウメにも巣を作ったのだ。更にその翌日にはユスラウメの隣のネズミモチにも。また次の日は北側のモチノキにも。僅かなうちに、わが家は五個の巣に囲まれた。西側には作らなかったが、そこには木がなかっただけだ。
(これはハトの怨念だ!)
 僕は那須に逃げた。そこでほとぼりを冷ますつもりだった。だが、結果として話は最初につながる。
 日本にはドバト、キジバトカラスバトシラコバトアオバトなどがいるそうだが、もしかすると、僕が最初の巣を取り除くのを見ていたカラス。あいつはカラスバトの仲間かなんかで、怨念のハトとも姻戚関係にあったのかも知れない。きっとそうだ。逃げる僕を追って那須に刺客を放ったのも、あの電柱から見ていたカラスに違いない。
 その復讐計画はち密であった。大きなキジを頭上に落とす。利口なカラスたちの中にあっても、「カラス界のニュートン」だけにしか生みだせない奇策である。
 しかし、落下のキジは僕を外した。なぜか? それは、キジがその日食べたものの重さとその日の風速、更には湿度と高度の関係に、ミクロの誤差が生じたからに他ならない。
 因果関係を知らないお隣のご夫婦は「危なかったですねえ」と偶然の出来事のように言ったけど、「いや、まったく」と返しただけで、僕は真実を明かさなかった。ハトやカラスが飛ぶたびに怯える心の内を、知られたくはなかったからだ。くわばら、くわばら。僕は独り庭の片隅で、傍目を偲び「ハト供養」を細やかにやった。