モノを貰うタイプ

「田舎の人は親切だ」とよく耳にしたけど、成程那須の人たちも親切だ。玄関口をトントンするので出てみると、見知らぬ人がニコニコしながら立っていて、紙包みをヌ〜ッとよこしたりする。
「これ、あたしが作ったんだけどさあ、よかったら食べてくんない?」
 いきなりそんなこと言われたって、今は亡き母から「知らない人からモノを貰っちゃいけないよ」と散々言われた過去がある。さりとて「おじさんのこと、僕知らないもん」と言える歳ではないから、「えっ、あら、あらあらあら…」なんて時間を稼ぎながら、(誰だっけ? 誰だっけ?)と必死に枯死しそうな頭を働かせる。そりゃもう大変だわさ。数秒の中でやっとこサァ思い出してみれば、きのうの散歩で擦れ違った人だったりする。
 兎に角、那須に居ると戴きものが多い。頂戴するのは、自家製食材や食品、自家栽培の花や木などが中心だが、時には遠方から買い求めて来た土産品だったりするから恐縮だ。
 親切を受けられるのは有難いことではあるが、あまりに頻度が重なると(物欲しげの顔ではないか?)と心配になる。
 妻は僕を「モノを貰うタイプ」だと断じる。成程、振り返れば確かに貰いものが多い。帽子、シャツ、ネクタイ、ベルト、靴下、財布、名刺入れ、ハンカチ…。ふと気付くと、貰いもので身を固めている日があったりする。
 数ある貰いものの中で、もっとも大きな貰いものは島だ。
 1980年2月、財団法人青少年勤労グループワーク協会の堀添勝身専務理事(当時)を団長とする僕たち十二人の仲間は、インド洋に浮かぶサンゴ礁の楽園・モルディブ共和国に援助米を届けに行った。援助米の資金は「一円玉募金運動」から得たものだ。
 クーデター未遂事件があった直後だったので、官邸警備がピリピリ状態。大統領との接見を許されたのは、団長と事務局長と僕の三人だけ。ポケットの中身はすべて預かり。援助米の「寄贈目録」以外は身一つという接見だった。
 険しい顔が包囲する中、満面の笑みで迎えてくれたのは執務室のガユーム大統領だった。寄贈目録の贈呈が終わると、大統領は大きな地図を取り出しながら言った。
「皆さんからの援助に、とても感謝しています。私も皆さんに何か報いなくてはなりません。そこで考えたのですが、島を一つプレゼントさせて下さい」
 モルディブ共和国は、スリランカの南西六百五十キロのインド洋上に点在するおよそ二千の島からなる国だ。その中の一つをプレゼントするというのである。
 ド偉いものを貰ったもんだ。帰国後、堀添団長と僕は、のちに総理となる小渕恵三総務長官を訪ね、事の次第を報告した。仕事を通して旧知だった小渕長官は、「そりゃまた凄い!」と破顔一笑、喜んでくれた。
『日本のボランティア青年団が、モルディブの大統領からインド洋の島をプレゼントされた』というニュースは、当時の朝日新聞の社会面で大きな囲み記事となって報じられた。島は、個人ではなくグループとしての貰いものではあったが、僕としては、親から貰った「命」の次に大きな貰いものであった。
 さて、島は別格にしても、貰いものとは実に不思議なものだと思う。大好きな高級ワインを戴いても、飲まずに一か月も置いてしまうと、「はて、誰から貰ったんだっけ?」てなことになる。三か月も経ってしまうと、貰ったことすら忘れてしまう…こともある。(…ことがある。と付け足したのは、今後貰えなくなる可能性を恐れたからだが…)
「ネクタイ、似合ってますよ」と言うから、「ありがとう。貰いものだけど、誰からだったかなあ?」と首を捻ったら、その男「私ですよ」と言った。だったら「私が贈ったネクタイ、似合ってますよ」とか言ってくれればいいのに。
 貰った直後の「記録的忘却」も経験している。友人が訪ねて来たので、傍らのバナナを「古いもんで悪いけど」と言って差し出したら、妻がうろたえて「これ、いま戴いたの」と言った。そうだった。貰うの見てたんだ。
 貰って忘れないのは花だ。一週間で枯れてしまったブーケでも、その感動は残っている。五十歳の誕生日に、深紅のバラ五十本を贈ってくれた人がいる。しかも大バラでこれは圧巻。近所にも分けて回ったが、これなど一生記憶の外へは零れない。
 何を誰に貰ったかノートにメモるのは、卑しい気がして出来ない。結果としての忘却は仕方ない。どうあれ、僕は「モノを貰うタイプ」のようだ。