雪の想い出

 那須のこの日の空は鉛色。ナルニア国の白い魔女が潜んでいそうな寒気である。「また雪が来るみたい」と妻が呟いた。
 雪。一面の銀世界に幻想的美しさを感じないと言えば嘘だけど、北海道の吹雪は陰惨だ。小さな娘を抱くようにして力尽きた父。小さな命の灯はつながった。だけど父は帰らない。やりきれない思いが胸をホワイトアウトの如くに覆う。
 僕にとっての雪は、〝下手な喜劇のプレゼンター〟か。あまり相性がいいとは言えない。

 雪との相性、その一。 
 二十年程前、雪道をチャリで走り大転倒したことがある。道の真ん中でひっくり返ったまま、意識はあれど手足が動かず、助けを呼ぶにも声も出ない。車が来たらどうなるの? ひっくり返ったカメ状態から早く助け出して欲しかった。
 待望の人が来たと思ったら、その人、僕を横目に行ってしまった。つぎに来た人も、見て見ぬふりの素通りだった。ネコの死骸でも見るような目。なぜだ!
 じつに妙なことだったが、つらつら考えるに、どうやら僕の顔の表情に原因があったようだ。というのも、かかる危機的状況にありながらも、道路の中央で寝ていることに、僕なりの恥じらいがあった。だからつい、はにかみ笑いをしてしまったのだ。相手様から見れば、声も出せない状態だなんて判らないから、横になってニヤつく中年男は怪しく映る。触らぬ神に祟りなしだ。
「どうしました?」と、最初に声を掛けてくれたのはセーラー服姿の女子高生だった。涙が出るほど嬉しかったが、「どうしました?」と訊かれても声が出ません。察して戴きたいのでございますが…。僕は必死に目をパチパチさせ、その窮地を訴えた。
「救急車を呼びましょうか?」。(そうして戴きたいのでございます)と、ここでも目をパチパチ。
 僕は彼女によって助けられた。救急車の中で救急隊員に「希望の病院はありますか?」と訊かれたが、「ええ、雪に手慣れた北大病院へ」と、ジョークの一つも言えない自分が情けなかった。
 診断の結果は背骨の圧迫骨折。看護師さんを介して会社に連絡したところ、出勤途上ということで、一時間もしないうちに労災適用の知らせが届いた。雪で転ぶなら朝がいい。夜だったら、会社と自宅を結ぶ線上には居ないだろうから、労災なんて無理無理。
さて、この入院で驚いたのは部屋が二人部屋で、同室患者が女子高生だったことだ。昼間救ってくれた女子高生ではない。僕より先に入院していたお嬢さん。僕は大層驚いたが、もっと驚いたのはそのお嬢さんの親御さんだったようだ。その日から病室にゴザを持ち込み、泊まり込むと宣言したのだ。オイオイ、こっちはトイレに行くどころか、寝返りひとつ打てない身ですぜ。救ってくれる女高生あれば、その逆もある。深夜も蠢く監視の目は、まことに切なく情けなかった。

 雪との相性、その二。
 二十代のころ、雪が降ったら会社をさぼって売りさばこうと、給料の何倍かを叩いてタイヤチェーンを五百本買った。マンションのベッドの下はチェーンだらけ。
 購入して一年後、待望の大雪が降った。しかもその日は、会社をさぼる必要もない公休日。僕は夜明けと同時にベッドを飛び出し、「エンヤコラ」と重いチェーンを運び始めた。と、そこに招かざる電話のベル。ムムム…。嫌な予感。恐る恐る受話器を取ると、やはり報道デスクだった。
「大雪だぞ。休日出勤だ。上野公園に中継車を出すから、おまえ、そっちへ回ってPDやってくれ」
 僕は心で叫んだ。「ばかデスクめ! おまえなんかカメ虫にでもなって、どこかへ飛んで行ってしまえーっ!」

 雪との相性、その三。
 仲間六人でのスキー旅行。僕は全員の切符を預かり、上野駅でみんなを待った。ところが、発車時刻が迫っているのに誰一人現れない。「何してやがるんだ、あの連中!」と切符の時刻を確認したら、変な文字が目に入った。「新宿発? ここは上野だよなあ…えっ、ヤバ! 新宿だったわ!」
 定刻五分前。もう遅い。とにかく後続列車で後を追った。乗務員から先発列車に連絡を入れて貰ってやれ一安心…と思ったところでつぎなる壁に突き当たった。
(オレ、どこで降りたらいいだんべ?)
 切符は「白馬」となっている。だから「白馬」で降りればいいと思っていたら、車内放送が変なことを言う。
「つぎは白馬大池白馬大池を出ると信濃森上から白馬の順に止まります」
 僕にとっては初スキー。こんな雪国なんか来たこともない。切符が白馬となっているから「白馬」で降りればいいと思っていたが、「白馬大池」なんて駅があったなんて。アワを喰って乗務員に「わたし、どこで降りたらいいでしょう?」と訊いたら、「さあ、どこでしょう?」という答え。でもこの人、冷たいわけではなかった。
「どの駅にもスキー場はありますが、可能性から言ったら信濃森上だと思いますよ」
「えっ? でも切符は白馬ですよ。その駅、白馬って付いてないじゃないですか」
「ですから可能性です。責任は負えません」
 僕はこの乗務員さんにかけた。
 滑り込んだ信濃森上駅。恐る恐る駅舎に入ったら、おお! 怖い顔が五つあった。「やあ、ごめんごめん」と笑顔で言ったが、誰一人喋らない。その中の一人はのちの妻だ。
 五分ほどして、やっと喋ってくれたのは、のちの妻ではない女性。後で知ったことだが、「少なくとも三十分は口を利くな」という先輩からの指令が出ていた。五分で禁を破った女性に感謝だが、はて、僕は選択を誤ったのだろうか?

 きようもまた那須の雪が、いくつもの雪の想い出をチラチラ空から運び出している。