大宅壮一オチンチン事件

 都会の空は小さいし、中国ほどではないにしろ鮮度にも欠ける。その点、那須の空は大きいし、抜けるような青さがある。その青いキャンバスに、いま飛行機が白い絵筆を走らせている。青地に白い一本の線。たったそれだけなのに、飛行機雲というやつは下手な絵より余程絵になる。
 想い出すに、僕が初めて飛行機に乗ったのは、大阪の茨木高校(前身は茨木中学)が創立百周年の記念式典を行った日のことだから、遥か四十数年の昔である。
 その日、同校卒業生の川端康成大宅壮一両先生の記念講演が予定されていた。そして、東京から赴く大宅先生のカバン持ちを務めたのが僕である。 
 僕は、いかにも旅慣れた顔でタラップを踏んだ。(大宅先生は、僕の先導無くしては目的地に辿り着けない)と、ノウ天気にも僕はそう思っていた。座席に着くと周囲を盗み見て、その通りにベルトを装着し、もし先生がベルトの扱いに手古摺るようなら、救いの手を差し伸べねば…とさえ思っていた。
「新聞はいかがですか?」と問うスチュワーデス(当時の呼び名)に対しても、僕は威厳を持って「朝毎読、全部頂戴」と言った。
「はあ?」
 スチュワーデスは一瞬、不純物でも見るような目で僕を見たが、すぐに、隣席のズタ袋みたいなおっさんが大評論家の大宅壮一だと判ったらしく、三紙全部を渡して呉れた。そのときである。嗚呼、あの忌まわしい舌禍事件が起こってしまった。小銭を取り出した僕が「全部でいくら?」と言ったのだ。
「あのねえ、飛行機の新聞は、全部タダなの」とのたまわれたのは誰あろう。僕が先導しているはずの大宅先生だった。スッチーが「クスッ」と笑ったのは酷過ぎる。
「もうすぐコーヒーが出るけど、それもタダだからね。むふふふふ…」
 先生は面白がっている。僕は亀になりたかった。甲羅の中に顔を埋めることができたなら、どんなに楽かと思ったのだ。
 コーヒーが来たのは、離陸してベルト着用のサインが消えてからだ。先生はそれを一口すすって、また「むふふふ…」と笑った。
(あっ、サディズムだ)と思ったら、この笑いは別だった。
「こないだねえ、日航のスチュワーデスが、こいつを僕のここにこぼしたのね」
 指で自分の股間を差している。
「えっ、そこって、大事なところをヤケドしませんでした?」
「したさ。だからズボンを下ろして、包帯を巻いてもらった」
「包帯、どこに?」
「オチンチンだよ。スチュワーデス、おろおろしながら巻いていた」
「当然ですよ」
「その晩、松尾君(当時の日航社長松尾静麿氏)から電話が来て、お詫びに伺いますと言うから、その必要は無い。ただし条件がある。この一件を『大宅壮一オチンチン事件』として日航の歴史のひとコマにとどめ置いて貰いたい─と言ってやった。アッハッハッハッ…」
 先生は天才ゆえに笑うけど、僕は凡人ゆえにスチュワーデスを哀れんだ。
 ところでその「舌禍事件」当日、行った先の茨木高校では、川端康成が「喋らない事件」を起こしかけた。大宅先生の前に演壇に立った川端康成が「あー」と言い、そのあと「うー」と言い、そのまま言葉を無くしてしまったのだ。大文豪のことだから、(どうしたのかな?)と思いつつも、聴衆は彼の言葉が出るのを静かに待った。
 一分が過ぎ、二分が過ぎたころ、大宅先生が僕の耳元で囁いた。
「あいつ、まだ当分喋らないよ。以前もこういうことがあったんだ。そのときはアー、ウーと言ったあと、スタスタ会場を出て行っちゃった。どうなることかと思っていたら、三十分ぐらいで戻って来て、『いま、散歩しながら喋ること考えて来ました』なんて言ってね、やっと講演が始まった。さあ、きょうも散歩に出るかどうかだ」
 その日は残念ながら五分ほどて話し出し、「散歩事件」を楽しむことはできなかった。
 数年後、彼はノーべル文学賞に輝いた。まことにめでたいことではあるが、贈呈式には受賞者の記念講演が組まれている。僕は、日本の恥にならねばいいが…と、本気で心配した。だが「雪月花」と題した記念講演は、大好評であったと外信が伝えて来た。正直僕は、家族の如く安堵した。
 那須の空の飛行機雲が消えかかっている。だけど僕の舌禍事件の悲しい記憶は、未だクッキリ消えないままだ。