ドジリを笑う 

「山に弱い牧童犬」と診断された不思議な犬のフレンディを、山に連れ込むわけにもいかない。仕方なく那須滞在の際は、ヤツをペットホテルに預けている。だけど、その「預ける」という行為は難儀だ。ヤツはその都度、僕に恥をかかせおる。まずはこんな具合。
 ホテルに連れて行くとあいつ「オレ、こんなとこ泊るのヤダ」と、足を突っ張り駄々をこねる。でもまあ、そこまでならいい。僕との別れを悲しんでいるかに見えるからね。
 恥をかくのは迎えに行ったときである。普通の犬なら、飼い主を見ると尾っぽをプリンプリンさせて喜ぶ。頭を主人の足にこすりつけて「ぼくちゃん、本当に寂しかったんだから」と、涙ながらに訴える犬だっている。しかるにわがフレンディときたら、泣くも怒るも喜ぶもない。僕を見て「おまえ、何しに来たの?」みたいな顔をする。その上で言う。「オレ帰らないよ。だって、ここがいいんだもん」と。
 あまりに礼節に欠けてやしないか。「あらあらフレちゃん、お父さんが迎えに来てくれたのに…」と、ペットホテルのお姉さんが執り成したりする。(この執り成しも酷くない?「お父さん」はないでしょう。僕はあんもの産むタネなんか提供していませんよ)
 兎に角みっともないから早く退散しようと、僕はリードをググッと引っ張る。するとヤツめ、足を投げ出し、お尻をズルズルさせて抵抗する。「あらあら」とか「まあまあ」とか、笑いを堪えていたお姉さんも、ついに堪え切れずに爆発する。ああ恥ずかしい。こうなることを知っているから、妻は決して迎えに行かない。「恥は亭主の担当」と勝手に心で決めつけている。
 ドジリは、それを笑う側に回るべしだ。今は昔の話だが、長女の七五三のお祝いで、何十組かが同時に神主さんのお祓いを受けたことがある。静まり返った堂内で、みこがいきなりド〜ンと太鼓を叩いた。衝撃的で誰も肩をビクッとさせたが、すぐに全員こうべを垂れた。ところがわが妻だけは、真面目腐った周囲が可笑しいと、満座の中、吹き出す笑いを止められないでいる。それに気付いた人たちが、必死に笑いを堪えている。神主もまた、笑いを堪えて祝詞をあげる。
 僕は目で(笑いをやめろ!)のサインを送った。ところがそれが可笑しいと、妻は涙ポロポロ大笑い。周囲だってもう止まらない。神主さまも人間だから、祝詞がバラバラ砕けて散った。
 母の葬儀のときも、不謹慎だが可笑しかった。棺に蓋をし、石打ちの儀が終わったとき、遅れて駆けつけて来たわが社の同僚女性が、「あいや、待たれい!」みたいに石を掴むと、棺をトントンやり出した。親族一同「はて誰だろう?」と首を捻る。石を打つのは親族だけのはず。でもこの人を誰も知らない。
 知っているのは僕だけだ。でも、こうなっては施しようがない。「あんた違うよ。これは親族だけなんだよ」なんて言ったら、彼女の将来を曲げることになるやも知れぬ。言えねえ、言えねえ。
 彼女は石打ちの儀を済ませると、厳粛な顔で葬送の列に加わった。間違った認識が無いのだから、観音さまのように落ち着いている。僕は本当に可笑しかった。実母の葬儀でのことなのに─。
 その夜風呂に入ったら、わが大腿部は、つねりまくってアザだらけ。笑いを堪えることって難しい。
 彼女はその後、某大手出版会社の重役に転身した。時折会合などで会ったときなど、このドジリを持ち出して、いい想い出の交歓としている。