すし三昧

 寿司が食べたくなると18キロほど車で走って、黒磯駅近くの店に行く。そこがこの辺りでは、僕と妻の口に一番合う。きょうも二人で出掛けた。
 結婚前、僕は中野区野方のマンションに居た。近くに旨い寿司屋があったからだ。夫婦二人で営むカウンター5席のちっぽけな店。先輩カメラマンに誘われて入った店だったが、僕はすっかりそこのネタの虜になった。「ここの寿司なら毎日でも食べたい」─僕は翌日会社を途中で抜け出すと、野方の不動産屋に飛び込んだ。そしてその三日後には、野方のマンションの住人になっていた。
 以後はどこで飲もうと食べようと、そこが連夜の最終立ち寄り処となった。暖簾を分けると、おかみさんが僕に石鹸とタオルを渡す。一杯やる前に銭湯でサッパリしておいでと云う訳だ。銭湯も自宅も同距離だったから、自宅でシャワーを浴びて来てもよいのだが、寿司屋での一杯に繋ぐなら、風情からして銭湯だった。石鹸の匂いをさせて戻るとポンと出る一本のビール。たまらん!
 当時の僕は、寿司屋でシャリは食べなかった。食べたいネタが多すぎて、シャリを詰め込む空きが無かった。最初は決まってトコブシから。お気に入りは特にキモ。殻を引っ剥がしてまだ動いているやつを、醤油もサビも使わずツルンと喉に送り込む。むふふふ…。つぎは赤貝。続いてミル貝。どちらもキモまで。ミルのキモは半分はナマで、残る半分は笹の葉に乗せ、焼いて食した。つぎはエビの踊り。残った頭も笹の葉に乗せて焼いた。
 当初僕は、エビの踊りは食べなかった。注文しなければ、エビが死なずに済むと思ったからだ。しかし、その考えはズルイと気付いた。人間というやつは、どんなに奇麗事を言っても、他の生命を奪うことでしか生きられないのだ。植物だって生命だし、日々殺戮の中で生活している。粗末にせず、感謝を込め、謙虚に食する以外、僕たちには償いの道は無いのだ。
 この店での締めはトロとシラウオ。どちらも三つ葉の乱切りと合わせて戴く。夜の十時を回った時点で他の客がいない日は、おやじが酒の相手になってくれる。三合もやるとおやじは潰れて寝てしまう。するとおかみさんがこう言う。
「かねこさん、うまくいったね。勘定決める人が寝ちゃったら、幾らだか判らないもんね」
 あとは何と言おうと、おかみさんはカネを受け取ってくれない。翌日蒸し返しても、おやじまでヘラヘラしながら「寝ちゃったからね」と言うばかりなのだ。
 僕は生ものが苦手な恋人(のちの妻)を、何度もそこに連れて行った。無神経な話だが、結果彼女も寿司好きになったのだから許されたい。
 結婚してから四度引っ越したが、どこでも馴染みの寿司屋はすぐに出来た。その中の一軒は、明らかに僕たち一家が食い潰した。
 その店はある大店の支店で、カウンターで握るのはトップとサブのお兄さん二人。残る一人は配膳と出前。一家四人で初めて入った日の会計は、次女は赤ちゃんだったけど、僕は飲み、妻と長女は「あれだこれだ」と好きに食べて一万円ちょっと。それでも安いと思ったけれど、三度目あたりから一万円を切るようになり、以後八千円、七千円と下がってゆく。
 あるとき店の近くでロケをやり、その後スタッフ三人を連れて軽くやった。そのときに食べた量は、日頃一家で食べる量の半分にも満たなかったが、「今日は仕事だから領収書を貰うよ」と言ったら、トップはすまなそうな顔で「三万円」と言った。どうやら、それが正規の料金らしい。
 そのトップが転勤となって、それまでのサブがトップに着いた。これで料金は上がると思いきや「幾ら?」と訊いたら、「へい、五千円」だと。以後、どんなに飲もうと喰おうと五千円。
 やがてそのお兄さんも転勤となり、最初出前だったアンちゃんがサブを経てトップに着いた。さあどうなるかと思ったら、「へい、三千円」。当時の僕は、正一合六百円の日本酒を通常五本。多い時で七本飲んだ。妻や子どもはいつもの通り「あれだこれだ」と食べまくった。酒だけだって、五本飲めば三千円ですぜえ。どういう計算をしたら「へい、三千円」になるのだろう? それを訊いても、アンちゃんはいつだって笑うだけだった。これじゃ潰れちゃうと思ったら、その三代目のアンちゃんの時代に、予想通り潰れた。長女など、遊びに出て小用を覚えると、自宅に戻らずその寿司屋に走っていたのだから、僕としては潰した上にも、罪の大きさを感じないわけにはいかない。
 つぎに引っ越した先の寿司屋では、店主催の大コンペの参加賞に僕の著書を採用するなど、何かと面倒見てくれた。
 いま行きつけの寿司屋は、歩いて数分の距離というのに、雨だと車で送ってくれる。下の娘が結婚したときなど、娘の名を彫り込んだ包丁を贈ってくれた。その他諸々ありがたや。
 ありがたいと言えば、先日寿司屋の話を童話にしたら、優秀賞となって賞金まで頂戴した。その賞金が寿司に化けたのは言うまでもない。
 寿司三昧。有難過ぎて、腸がヒクヒク笑ってしまう。