山に弱い牧童犬だと?

 散歩中の同居犬(愛犬とも愚犬とも断定できない犬のフレンディ)が、突然与太り出した。リードを引いても動かない。町に売られるのを拒んでいるベコみたい。
 さあ大変と飛び込んだ那須のお医者様は、検査の限りを尽くしてくれた。待つこと一時間半で結果の発表。そこで出されたご託宣は、妻と僕とを打ちのめした。
 データを手にお医者様は言った。「すごい結果です。どこもここも臓器はズタズタ、便虫もウジャウジャです。尿もドロドロで、正常なところはありません。生きているのが不思議なくらいです」
 説明は数値に基づき具体的。理数に疎い僕は、ひたすら頷くばかりであった。
「というわけで、うちでは手の施しようがありません。どうしましょう?」
(どうしましょうったって、それを伺いに来ているんじゃございませんか)
 口ごもる僕たちに、お医者様は質問を変えた。
「この子に主治医は居るのですか?」
「居ます。埼玉の大宮に」
「あら遠いこと。そこまでの輸送となると…う〜ん。まあ、首尾よく着かれることをお祈りするばかりですね」
 冗談じゃない。そりゃ死の宣告でござんすか?
 このまま死なせてなるものか。僕たちは心逸るものの、車のスピードは乳母車を連想するが如く、そろりそろりと大宮を目指した。途中からは次女の舞友が断腸の顔で合流したが、この娘こそ、当時は「人間以外の毛のある動物とは、共に天を仰がない!」と宣言して憚らなかった妻や長女瑞希の大反対を押し切って、わが家にフレンディを迎え入れた張本人である。
 どうにか目的地まで辿り着いたフレンディは、診察台の上で、命のロウソクが消え入りそうにぐったりしている。「生きているだけで儲けもの」みたいに言われたのだから無理もない。
 僕は、那須の先生から貰ったデータ表を示し、主治医の先生に捲くし立てた。
「この数字を見てください。どこもここもズタズタなんです。便虫もウジャウジャです。尿もドロドロです。データをご覧になってお判りでしょうが、その一つ一つが単独でも死に至っておかしくない数値なんです。生きているのが不思議な…」
「はい、もういいから」と先生は、僕の話を打ち切らせた。聴くまでもないと思ったのだろう。受け取ったデータ表も、ポイッとテーブルに放り出してしまった。
(嗚呼、やっぱりだめなのね)と、妻は泣く準備に入っている。
 先生がフレンディの目を覗き込んだ。(臨終を告げるんだな)と僕も泣く準備に入った。
「う〜ん」と先生が唸った。そして呟いた。
「山にやられたな」
「はあ?」
「つまりね、この犬、多分山に弱いの。海には強いけど山には弱い。逆の犬もいるけど、この子は海派ってことね」
(何それ?)って感じ。(嘘こけよ)って感じ。仮にもこやつは牧童犬ですぜえ。シェットランド・シープ・ドッグが山に弱くてどうするのよ。
「そっとしておけば、すぐ好くなるよ。まあ、薬は出すけどね」だって。
 僕たちは、キツネにつままれた思いで家路についたが、ああ、判らん。「こんなの有りかよ」と僕は言い、「何だったのかしらね。那須の先生って?」と妻は盛んに首を捻った。
 こっちの先生だって「何だったのか」と思う。だって「船に弱い、船酔い症のマドロスさん」─みたいなことを言うんだもの。
 何より判らないのはフレンティだ。ヤツはその夜、餌をしっかり食べおった。(もっと喰わせろ)みたいな顔だよ。昼間の態度は何だったんだ? ああ、みんな判らん。