脳味噌の素

 わが家の庭に、ときどきイナゴらしき客が来る。形態、色合いからして、懐かしのイナゴに違いない。 客はいつでも独りで来る。どこで生まれ、いつ親と離れ、どうやってここまで来たのか? そして、どこへ行く気の途中なのか? 兄頼朝に追われた義経でさえ、弁慶以下のお伴があったのに、嗚呼、きみはいつでも独りきり。ぼくはイナゴに哀れを覚えた。
 そのむかしは違っていた。ぼくが信州に疎開していた戦後すぐの頃、イナゴは、どこの田んぼでも跋扈していた。稲穂を食い荒す悪党軍団、獲れば喜ばれる害虫だった。
 その悪名は、こっちにとって好都合。他人の農作物の栽培地(水田)から、無断で獲って罪にならない食糧などというもの、この世の中に、そうザラにあるものではない。
 ぼくと兄は獲りまくった。田んぼもなければ畑もない。仕事もなければ知人もいない。とにかく飢えた一家であった。母が手ぬぐいの左右を縫い合わせて、イナゴ袋を用意した。それを持って山坂を下り、ふもとの田んぼに出向くのだ。イナゴは無数だった。一時間もしないうちに、イナゴ袋はパンパンになった。
 収穫イナゴは、母が甘露煮にした。「旨い」とは言い難いものだったが、飢えを前にしていた身、贅沢など口にできるものではなかった。
 そのころ同居しているじいさま(母の叔母の連れ合い)がいて、じいさまはアンゴラウサギを百羽ほど飼っていた。ペットではない。年に何度か毛買い商人が廻って来る。じいさまは、その毛を売ることで幾ばくかの収入を得ていたのである。
 毛買い商人が来た日のじいさまは機嫌が良かったが、ウサギが一羽でもコロリと逝った日には、恐ろしく機嫌が悪かった。「死んじまったら毛が伸びねえ」と、当たり前のことを口走りつつ、包丁をキコキコ研ぎだすのだ。ウサギが死ぬのは稀ではない。月に二羽や三羽は死んだ。みんな病死だけど、じいさまがかっさばいたウサギは、その晩の食卓に乗る。病死のウサギが危険かどうか、それを論じる豊かさなどなかった。「旨い」とも「まずい」とも言わず、みんなは黙々と食べた。それが口にできる当時唯一の肉だったのだ。
 肉に準じるものとしては、ぼくたち兄弟が捕らえたサワガニやフナ。近所のおじさんが青大将を捕まえたときは、その輪切りを竹串に刺し、たき火であぶって食べさせてくれた。
 イナゴもそうした中の一つと言える。カルシウムが満点だとか、他の栄養分も豊富だとか、そんなことを思って食べた記憶はないが、結果として、ぼくの脳味噌の大半を作ってくれたのは、イナゴだったと言えなくもない。
 那須のイナゴを手に取って、幼い昔を懐かしんだ。跳びつく稲穂もない、わが家の庭の孤独なイナゴ。
「その節は、おまえのご先祖様にお世話になったんだよ。あまり出来の良い脳味噌にはならなかったけど、それでも、おまえのご先祖様の手助けが無かったら、もっとスカスカになっていただろう。ありがとうよ」
 述べた礼の気持ちが通じたかどうかは判らないが、イナゴは気持ちクリッと頭を回し、そのあと、ぼくの手からピョ〜ンとどこかへ跳んで去った。