お代官さまになる

 春から秋の僕たち夫婦は、上尾と那須の往復に明け暮れる。二人揃っての移動が常だが、車を二台にしたあたりから乳離れ現象が起こり、二居に別れることもある。そんなときは当然ながら、僕が三度三度の〝賄い夫〟。面倒ではあるが、定年後ろくに働きもせず、時間になったらポチみたいに食卓に座る体の悪さを感じないですむのはよい。
 きょうはその那須チョンガー。洗濯を済ませたのち、近くのスーパーまでネギやトマトや味噌や納豆や肉や酒や…計画性のない食材の買い出しに出た。「近くの…」と書いたが、一番近いスーパーでも往復二十キロある。だから、欲しいものを買い忘れたときの落胆は大きい。醤油一本買い忘れ、麺つゆで刺身を喰ったときは情けなかった。きょうの場合、絶対に欲しいものはビール。温度計が29度を示しているので…。なだらかな牧草地を下りながら「ビールビールビール…」と囁き通したのは、情けない思いをしたくないがためだった。
 那須高原大橋の手前に来ると警察官がやけに目立った。御用邸のある那須在住者なら、その意味するところがすぐに判る。僕も半歩那須に身を乗せているから「おや、皇太子さまのお帰りだ」と、すぐ判った。
 久しぶりのご尊顔を拝そうと空き地に車を止めると、タイミング好く殿下の車がやって来た。警察官を除くと、その場の市民は僕を含めて三人だけ。手を振る二人。殿下もにこやかに手を振られた。僕も慌てて手を振った。
 皇太子さまの素顔に接したのは、かれこれ二十年ぶりのこと。かつてブジサンケイグループは隅田川沿いで、イギリス王室三大イベントの一つ『ヘンリーレガッタ』を開催した。その開会式に皇太子さまも出席されたが、それ以来である。
 当時、僕はそのイベントの責任者の一人として、殿下をご先導する人物(フジサンケイグループ会議議長)の先導役を務めた。つまり先導者の先導役。そんなこと殿下がご存じのわけもないが、こっちは勝手に懐かしがった。
 このときのイベントでは、もうひとつ、大きな想い出を僕は残した。前夜祭として行われた薪能がそれ。薪能の開演は、お代官役によって告げられる。はかま姿のお代官が松明を手に登場し、ゆっくりと基本の動作で舞台を巡る。顔は正面を睨み、松明をかざす右手は目の高さ。上体をヘソの上に乗せて、静かに、しかしながらどっしりと…。お代官が向かう先に組まれているのは、松明の火を受ける燈明の大鍋。そこにお代官が松明の火を傾けると、鍋の薪がパッと燃え上がる。ここで代官は振り返り、幕に向かって大発声。
「はじめませーっ!」
 幕がスルスルっと上り、これをもって薪能の開演だ。
 このお代官役を演じるのは能役者ではなく、その時々のイベントの主催者なのだそうだ。というわけで、この日の代官役を演じたのは、当イベントの責任者の一人であった僕。満座の中での舞台は、遠い昔の初舞台以来で楽しかった。
 僕の初舞台は、小学校一年のときの学芸会。七人で両手を羽根のように扇ぎながら童謡『七つの子』を歌った。
  ♪♪カ〜ラアスなぜ泣くの〜う カラスは山に〜… 
 以来その歌を僕はこよなく愛している。だから一時期ドリフターズが「カ〜ラアスなぜ泣くの カラスの勝手でしょう」と歌ったときは、何だか無性に腹が立った。
 話を戻そう。皇室関連では、もう一つ大きな思い出がある。すでに三十数年の昔になるが、新年特番『天皇一般参賀』のディレクターを務めたときのことである。
 当時の僕は無茶苦茶で、侍従に対しこう言った。
「陛下がお立ち台にお出ましになられる時間を、数分遅らせていただけませんでしょうか?」─と。
「そんなこと、あなた、できませんよ」
 侍従は即座にそう答えた。当然だろうし、そう来るだろうと予測もしていた。でも僕は“ダメモト”覚悟で本気だった。民放では皇室番組であれCMが入る。陛下のお立ち台へのお出ましが定刻通りの九時だとすると、陛下のお姿にCMスーパーが被ってしまう。それを僕は避けたかった。
 結果として、なぜそうなったか判らないが、その日陛下は二分遅れてお出ましになられた。ロングショットにせよ、僕は陛下のお姿にCMスーパーを被せずに済み満足だった。
 皇太子さまの車列が那須高原大橋を渡って消え去ってからも、皇室との想い出をあれこれ記憶の中から引っ張り出し、しばらく僕は郷愁の中に遊んだ。