長いものに巻かれる

 那須にはペンションが多い。「その数日本一」と誰かに聞いた気がするが、当方「空耳世代」に入っているから断言はしない。だけど、小石をパチンコで空に放つと、落下の石がペンションの屋根にコチンコロコロ当たる確率が高いことは確かである。
 そんなペンションの一軒から「お茶でもいかが?」と誘いの電話が入った。こちらの〝日長ゴロゴロ〟をお見通しだから、断わったら角が立つ…と出掛けたら、お茶ならぬ冷酒グラスがポンと出された。
「あいや待たれよ。本日は週に二度の禁酒日だから…」と辞退したら、「それって、あしたに延ばせばいいことでしょう?」と来た。「まあ、そりゃそうなんだが…」と言いつつ僕の手は伸びて、「しかしまあ…ダメなんだよね」と、何がダメだか。グビリ。「あ〜あ、やっちまったよ」と、ここで気持ちが楽になる。一杯でも飲んでしまえば禁酒日ではない。こうなったら(轡の外れた馬となれ!)だ。
 この日はまた、禁酒日の信念を貫き通してはいけないお膳立ても整っていた。夫人がまずテーブルに置いたのは自家製ピクルス。バナナピーマンやアマナガといった普段はあまり目通し叶わぬフレッシュ野菜が、酢加減よろしく漬け込まれている。まいう〜。
 つぎに出て来たのは珍味も珍味。「何これ、極楽鳥のホアグラ仕立て?」と問うてしまった優れもの。じつは豆腐の味噌漬け。水切りした豆腐を特製の味噌で包み、冷蔵庫に半年寝かせたという高級仕立て。食べると舌に絡まる感じが(はて、チーズだろうか?)と錯覚させる優れもの。手間暇を考えたら、無造作に口に放り込めない。
 つぎにあるじ自ら出して来たのはマタタビのビン漬け。これを以って「精力増強、煩悩も狂わさん」と言う。煩悩も何も、そっちはすでに死んだミル貝状態…ではあるが、この四十年余、僕は先輩、同輩、後輩から「ネコちゃん」と呼ばれ続けている。そのネコちゃんゆえか、一粒口に含んだら、ふわ〜っとした不思議な丸さが口中いっぱいに広がった。うむ、この感覚がネコを虜にするのだろう。
 これだもの酒がスイスイ進んじゃう。頃合いを計ったようにあるじが言った。
「どうせだから、夜メシもやって行って下さいよ」
「いや、そこまで行くと下車の利かない特急列車が走り出すゆえ」と固辞すると、「もう走り出したも同然です。だってね、この時期にしか食べられないチチタケの汁で食べるうどんからね」と来た。
「うどん?」
「そう。うどん。それも讃岐と稲庭と」
「うどんねえ」
 僕は元来、長いものに巻かれるタチである。うどん、そば、パスタ、ラーメン、ソーメン、きしめん、冷麦、春雨、しらたき、うなぎ、どじょう、あなご、うど、ふき、ごぼう…ぜ〜んぶ好き。中でもうどんは毎日一食あってもよい。それを持ち出されたのでは人格を失う。
「どうです? うどん」
「うっ…う〜ん。うっ、うどん。…じゃあ、いただきます!」
 節操をかなぐり捨てて食べたうどんのうまかったこと。いや、うどんも逸品ながら、チチタケの汁が絶品であった。〝まぼろしのつけ麺汁〟と言っていい。チチタケそのものは汁に旨味のすべてを吸い取られ、「昔は娘で今婆さん」状態になってしまっていたが…。 すっかりゴチになったあと、借りた懐中電灯をかざし、闇夜の道をそろりそろり。見上げるところに欠けた月あり。そこで軽口。「何となく、明日も良いことあるような。欠けても痩せても、まだ残る月。六十半ば」