家族公認疾走マン

 那須は温泉地であり、別荘地であり、名所や娯楽施設を持つ観光地でもある。だから来客のときは、温泉派か、バーベキュー派か、名所巡り派か、客の興味に合わせた歓待を考える。
 義母が来たので、僕と妻はアンティークジュウリー美術館を案内した。宝石と金銀細工が織り成す美の世界。最近まで社交ダンスをやっていた人にはピッタリの空間と考えたのだが、目算が狂った。三百余点の宝石や銀器に、まるで興味を示さないのだ。説明文を読もうともせず、観覧順路で立ち止まることすらない。すすーっとひと回りしてチョン。明らかな選定ミスだった。
 しかし選定云々はともかくも、義母が見せた行動自体は悪くない。カエルの子はカエル。牛の子は牛。鶴が亀を生むわけもない。宝石に興味を示さない人の子が僕の妻なのだから、喜んでしかるべきだ。
 かつて僕は、妻に宝石を買ってあげた覚えがない。「買って欲しい」とせがまれた記憶もない。それはそれで幸せな日々だった。
 振り返るに、二人の娘も宝石を崇める素振りを見せなかった。牛でもないのに鼻に穴を開けたり、いかさま占い師みたいに首からジャラジャラ光りものをぶら下げたりもしなかった。嫁いだ今も、指に光るものなど何もない。僕はそれでいいと思う。飾り立てなくとも、容姿その他、人並みを大きく外しているとは思えないから。
 義母が帰るのと入れ替えに、その娘たちがやって来た。牧場一家の揃い踏みだ。
 牧場一家とは、妻と長女がウシ年、次女がヒツジ年、僕がウマ年、犬のフレンディーがシェットランド・シープドックであることを指す。それがまた、万年カレンダーをめくってみたら、全員が火曜日生まれだったことに驚嘆する。何か意味がありそう。もしかして、僕たちが気づいていないだけで、じつは合体すると、とてつもないパワーを発揮する妖術一家なのかも知れない。
 例えば、一家四人と犬一匹がバレーボールの試合のときのように円陣を組んで、その中央で右手を重ねる。そして叫ぶ。「ミラクルファイアー!」とかってね。
 その途端、円陣の中央から火柱が噴き上がる。同時に僕たちは、翼を持ったウシやヒツジやウマに変身する。フレンディーは犬のままだが、いつものボケ顔ではなく、祖先の国イギリスの首相だって務まりそうな賢い顔立ち。噴き上がった火柱は燃える剣や薙刀となり、それを手に手に悪と闘う五匹の戦士…なんちゃって。へへっ、バカ言ってらあ。
 さて、牧場一家の楽しいディナー。長女の婿殿は夕焼け小焼けの太陽みたいになりながら、僕の酒に頑張って付き合ってくれた。…と言ったって、たんとは飲めない。長寿王・泉重千代さんの記録を破って生きたとしても、僕の生涯酒量の百分の一にも届くまい。飲んだそばから膨らんで、スイッチが切れたら間髪も無くつぶれるあたり、さながらレンジの中のおモチだが、ザルのような婿を得たよりずっと良い。
 僕はザルではないがダラダラいく。そして、気分が乗ると走り出す。〝走る如く飲む〟の意ではない。実際にタッタカターッと走り出すのだ。飲みに行った帰路、突然疾走を始める僕を、妻も娘たちも不思議がらない。不思議がるのは、近くに居合わせた見ず知らずの方々だけ。へい、どちらさまもごめんなすって。僕は、家族公認の疾走マンなのだ。
 チャリで疾走することもあった。もうず〜っと昔になるが、寿司屋からの帰り道、幼い長女を前に乗せ、後ろの荷台に妻を乗せ、長い下り坂を漕ぎ出したことがある。漕がなくたって加速がつくのに、見る見る一つの弾丸となる。
「わっわっわ〜ァ!
 慌ててかけたブレーキだったが、ブレーキめ「オラ知らねえ」と請け合わない。とうとう沿道の家の門扉を破って庭に飛び込み、あと数センチで玄関ドアもぶち破るところだった。その結果、どうなったかまでは言及しない。
 疾走癖は、若さを失った今も気分次第で顔を出す。牧場一家はディナーのあと、玄関前で花火をやった。
 玄関燈を消すと、点在する明かりも見えない漆黒の闇。花火に火がつくと、都会では得られない鮮やかさが際立つ。心も自然と燃えて来る。ウマだったら、後ろ脚で立ちあがり、前脚をカッカと掻きむしりたい心境。一番太い筒状の花火に点火すると、もう堪らない。「芸術は爆発だーっ!」と、僕は岡本太郎ばりとなった。噴射する「赤い火青い火」を天に掲げ、意馬心猿走り出した。心は聖火のつもりだったが、全力疾走するあたりが酒の為す業。走る僕の頭には、花火の火の粉がパラパラ散った。
 年寄りが一番ハシャいだ花火は終わった。風呂に入ろうという段になって、ヘソのあたりに痛みを覚えた。見るとズボンに穴がある。ズボンを下ろすと、パンツにも穴がある。パンツを下ろすと、ヘソの下に十円玉ほどの火傷があった。「ありゃあ」と言って僕は笑った。痛いのに。疾走公認家族たちも、このときばかりは少し呆れた。