ホタル飛ぶ

 元来、僕は買い物が好きではない。だから家具やテレビを欲しいと思っても、自分からは買いに走らない。
 有りものの買い替えとなると、特にその傾向が強まる。ズボンに穴が開こうが、靴下のゴムがひょろひょろになろうが、そのまま妻に申告せずにいる。
 妻は僕と逆。僕の隠匿欠陥物を発見すると即刻“処分場送り”とし、新しいものを買いに走る。この場合、下着や靴下なら知らぬ間に新品に入れ替わっているからいいのだが、厄介なのはズボンやセーター。僕がときどきセーターの穴を隠して着ているのは、“セーターの穴ぼこ”を愛しているからではなく、試着を伴う買い物に引っ張り出されることを恐れているに他ならない。
 自分のものさえ買わないのだから、他人のものなど買うはずがない。振り返って、妻に宝石を買ってあげた覚えがない。結婚指輪だって、恥ずかしながら妻に買ってもらった身だ。
 そんな僕なのに、自分の田舎が手に入ってからというもの、何だカンだと買いたくなり、心の命ずるままに走り出した。ガーデンテーブル、ガーデンチェアー、ガーデンパラソル…。自分が使うものばかりではない。愚犬フレンディーにもログハウス風ケンネルを…と。このケンネルが大層立派で、やつには不釣り合いと思ったけれど、それを言うと「だったら、おまえはどうなんだ」と、藪から蛇が出て来てしまう。
「ほら、おまえの屋敷も買って来てやったぞ」と言ってみたが、フレンディーのやつ、特段の興味を示さない。それはそうだな。まだ梱包のままだから。
「待ってろよ。いま見せてやるから」と梱包を解き、僕は早速組み立てに掛った。素材が新鮮な木の香りを漂わせる。
 図面通り側壁を立て、床をはめ込み、残る人型の屋根板二枚を合わせれば完成…と、ここまでは順調だったが、最後の屋根板二枚がどうやっても合わない。ボケのせいなら克服せねばと必死に頭を巡らせた末、ようやく理由が呑み込めた。左右別々であるべき板が、二枚とも同じ側面のものだったのだ。
 購入先のホームセンターに電話を入れたら、二十キロの道のりを30分と掛らないで、代替物を持った店員が駆け込んで来た。
「どうやっても合わないから、ボケがさらに進んだかと心配したよ」と言ってやったら、店員は僕の顔をマジマジと見て、「判りました。わたし、組み立てます」と謙虚に言った。そういうつもりで言ったわけではなかったが、そういうつもりになってもらって有難かった。
 モノも人を選ぶのか、店員の手にかかったフレンディーの館は、たちまちのうちに完成した。
「見ろ、フレンディー。これがおまえの那須での家だぞ。立派だろう?」
 喜ぶと思いきや、やつめ、「フン」とあっちを向いて振り返ろうともしない。「ほら、入ってみろよ」とリードをググ〜ッと引っ張っても入らない。お尻を押しても入らない。レジスタンスを知っているのか。のの子ちゃんちのポチみたいだ。
「もういい。勝手にしろ!」と突き放したが、じつのところ、突き放されたのはこっちみたい。夜、そっと見に行ったら、やつめ、せっかく買った豪邸に尻を向けて寝ていやがった。はて、これほどまでの反抗的態度、誰のしつけによるものか?
 落胆しながら玄関燈を消す。一瞬にして漆黒の闇。見えるものを求めるように見上げると、そこに満天の星がきらめいていた。
「えっ、これがニッポンの空?」と思う目映さ。ここで、またまた登場寺田寅彦。曰く。「好きなもの、イチゴ、コーヒー、花、美人、ふところ手して宇宙見物」…判るな〜あ。
「あっ」と、妻が小さな叫びをあげた。
「どうした?」
「ほら、あれ、ホタルじゃない?」
「あれったって、闇夜に指を差されても判りまへん」
「白樺の木がある方」と言われて移したその目に飛び込んだのは、まごうことなくホタルだった。青、白、黄色、そのどれをも含んだ光りの点が、ゆったりと点滅曲線を描いている。来る来る来る、僕たちの方へ。
 もう妻の手が届く位置だ。ピーターパンの仲間の妖精ティンカー・ベルを見るようである。妻の表情は闇の中で見えなかったが、感激の息づかいが肌に伝わった。
 ホタルは清流の森へと消えた。自然界を自然のままに飛ぶホタルを生で見たのは「いまが初めて」と妻が言った。
「ホタルって、あんなに光って飛ぶんだ」
 1時間後、彼女は布団の中で、まだ興奮醒めやらないようであった。