記念すべき一泊目

 那須の家が完成し、カギが僕たちの手に渡った。
 真新しいスリッパに足を突っかけると、室内は当然ながら木の香り、空間のゆとり。一週間前に発注しておいたカーテンも、すでに取り付けられていた。
 僕は窓辺に寄ってカーテンを引いた。
「おおっ!」と、これは無意識から出た自然の発声。
 地のみどりよ、空の青さよ。流れる雲は夢を運び、那須連山が新参の僕たちを快く迎えているではないか。これが田舎だ! これこそ封印解かれた理想郷だ!
「やっほーっ」と叫びたかったが、妻の手前、ひとり静かにほくそ笑んだ。ガラスに映ったその顔は、何十年と見慣れていながら奇妙なもんだ。
 森を抜けて車が来る。すでに発注しておいた布団や冷蔵庫たちがやって来たのだ。うん、この雰囲気が何とも言えない。そう。蘇るのは、あの新婚時代のコソバユイ気持ち。少し無理はあるけれど、妻の後ろ姿に当時二十二歳の初々しさをダブらせてみたりした。
 高原を下って、食卓テーブルや椅子・テレビ台などを買いに走る。買い物の選択眼は妻が優る。余計なことを言わず「何々が欲しいの」とだけ伝え、あとはジッと待つ。おとなしくさえしていれば、必ず良いものを与えてくれる。この日買ってくれた本箱のように。
 買い物が済むと新居の整えだ。室内が妻の手により、少しずつ生活の場へと仕上がってゆく。
 庭の担当は僕だ。僅かなスペースであっても、地球の一面をいじるのだから、それなりの緊張がある。シャツの三つめのボタン、あばずれの花嫁修業、おちんちんの毛、男の乳房…と、あっても役に立たないものは色々あるが、自然の恵みには不要と思えるものがない。あっちの石をこっちに移し、こっちの庭樹はあっちに移そう。あの一角は花壇にしよう。そっちの角にはハーブを植えよう。それやこれやが地球のデザインを変えることになると思えば興奮もある。「自然の姿を見せてはいけない。見せると何か不都合なことがある…ということから女性の化粧が始まったのではないか」と、寺田寅彦はモノの本の中でいぶかっていたが、成程、いじり過ぎはいけないかな…と、トワイライトの空を見上げ、僕はその日の作業をいったん終わらせた。
 当初、ディナーはどこぞのレストランでと考えたが、もしも「新居」に人格があるとするならば、初っ端から新居に対し愛想が無さ過ぎやしまいか。巡り合った感動を分かち合うのが人の道ではあるまいか。そう考えた僕たちは方針転換。急遽コンビニからあれこれを買い込んでの家食に切り替えた。ウィスキーの水割り缶をプチュッと開け、ドチッと合わせて「かんぱ〜い!」。
 テレビが東京の気温三十七度を伝えている。僕らは風邪を引かぬよう、窓をしっかり締めて寝ることにした。ふふふふ…。