定年・気まま・田舎暮らしのごった煮日記の口上

 人生六十余年を生きて来ながら、僕は、僕のおやじのことを何も知らない。どんな生い立ちで、どんな少年期を過ごし、どんな夢を持っていて、夢実現への挑戦意欲がどれほどで、どんな心情を持ち合わせていたのか、まったく知らない。
 おやじについて知っているのは、タバコは吸うが、酒は身銭を切ってまで飲まなかったとか、屁をするとき尻を持ち上げたとか、笑うことがまったく無いわけではなかったとか、毎日の生活が判で押したようだったとか、つまりは共同生活者として僕自身が直接観察できた範囲でのことでしかない。
 おやじは寡黙だった。勉強しろとも、成績を上げろとも、他人様に迷惑をかけるなとも、何一つ言わなかった。運動会があろうと、遠足から戻ろうと、「きょうはどうだった?」といった、家族として有ってしかるべき会話も無かった。
 一緒に撮った写真もない。遊んでもらった記憶もない。いや、一緒に出掛けた事例が一度あるが、あれを「遊んでもらった」と言うべきだろうか?
 この「一度」というのが大変だった。池上本門寺のお会式に行ったときのことだが、そこで買ってもらった風船が帰る途中で割れてしまった。糸からつながって宙に浮いていた風船が割れた。それが、なぜ糸を持つ人の責任になるのだろう。そこから延々家に着くまで、「お前の持ち方が悪いから」と僕は怒られ通しだった。
 もともと父子の仲は希薄であった。というのも、僕がおやじを知ったのは、小学校に上がる1か月前の昭和24年3月である。それまで母と兄と僕の三人は、おやじを東京に残したまま戦火を逃れ、信州佐久の前山村に疎開していた。
 僕が東京に舞い戻った六歳の春、これが記憶上、僕とおやじの出会いであった。
 おやじの寡黙は性格で、過去を隠していたわけではない。ただそれが異常に寡黙だっただけのことだ。おやじのルーツが新潟県の長岡で、そもそもおやじの親父が開拓民として北海道に渡り、その屯田の村で生まれた子がおやじだったということは、おやじの口から聴いていない。おやじが亡くなったことで法制上の必要が生じ、戸籍を遡って初めて知ったことである。おやじを回顧しようにも、升目を埋める言葉を持たない。これを血縁と言うには、いかにも淋しい。
 だから僕は僕なりに、僕がどんな少年期を過ごし、どんな人生を標榜し、どんなアホなことをやり、どんな喜怒哀楽があったのか。更には今何を考え、どんなことをしているのか、少しぐらいは嫁いでしまっている二人の娘に伝えておこうと考えた。
 ただそんなこと、真面目腐って言えやしない。そこで思いついたのが、過去現在、現実理想ノスタルジー、何でも織り交ぜ、勝手気ままに綴ってしまう日記である。
 勝手気ままと言ったって、日記であれば「実際の見聞」や「感動」なんぞがなくてはいけない。それには環境。幸い僕には、定年を迎えるにあたって、妻を拝み倒して手に入れた田舎暮らしの家がある。ちっぽけな家だけど、その地那須には、自然の優しい懐がある。日記をつけるに絶好の雰囲気が漂っているのである。
 この日記に、僕は二つの意味を込める。一つは、人生が片付いてしまう前に娘たちに残しておこうとする「父親の実像伝達」。あと一つは、理想としていた「田舎暮らしの讃歌」である。勝手気ままなごった煮日記。ひと様への何の足しにもなりはしないが、そんなこと一向に考えず、いざやガタンと列車を発車させよう。(銀の猫=かねこたかし)