『台風』

『台風』
「台風○○号は間もなく和歌山県紀伊半島付近に上陸し、夜には関東の首都圏直撃の恐れが出ています」
 ラジオが大型台風の接近を知らせると、トントントン…と、どこからか釘打ちの音が聴こえ始める。音は次第にその数を増し、数時間のうちには町中トントン、トントン…まるで〝カマボコ祭り〟でも始まったかの様相となる。
 そんな日は父も職場から早帰りしてトントンの仲間入り。用意してあった板だのトタンだのを、引き戸、窓、勝手口…、弱点と思える箇所に片っ端から打ち付けた。元々弱点だらけの家だから、すべて補強したあとは昼間のうちから闇をもたらし、夜には本物の停電がやって来た。雨だれ共騒曲も朝まで続く。今も台風は恐ろしいが、小学時代のぼくは、台風と聞くと天地の定めがぶち壊されるほどに恐ろしかった。
 小学1年の時はキティ台風(死者・行方不明160人)、2年の時はジェーン台風(同539人)、3年でルース台風(同943人)、4年でダイナ台風(同135人)、5年は南紀豪雨があって(同1124人)、6年は洞爺丸台風(同1761人)。この洞爺丸台風では、「船長の家内です」と、遺族に詫びて回る夫人の姿があったそうだ。

『クズ屋』

『くず屋』
 東京の下町にあるわが家の近辺には、リヤカーを引いたくず屋さんがよく廻って来た。
「くずィ〜、くずィ〜。くずや〜ァお払い」
 声が掛かればボロ布、古着、古紙、金物、割れたガラス…、大抵のものを天秤ばかりに掛け、「一貫目幾ら」で引き取った。やっていることは今の廃品回収業と同じだが、テリトリーがリヤカーを引ける範囲だし、回収物の内容ときたら、今の業者は歯牙にも懸けないものばかりだ。
 廃品回収業の歴史は古い。近世前期、京の町にはすでに紙くず買いの業者が居た。江戸元禄の『人倫訓蒙図彙』という書物にも、大きな布袋を肩に掛け、竿秤を持った女の紙くず買いが描かれている。近世後期にはそれらが男の職業となり、古着、古鉄、古道具なども買い集めるようになった。
 小学生高学年の頃のぼくは、同じ境遇(貧乏人の子弟)である親友と、くず屋の寄せ場によく出入りした。腹が空くと空襲で焼き落ちた工場跡地などをほじくり回し、鉄くずを拾い集めてお金に換え、コロッケを買ったことが何度となくある。

『アメリカザリガニ』

アメリカザリガニ
 赤くて大きな爪を持つこの生きものを、ぼくたちは「エビガニ」と呼んでいた。イセエビにも似た立派な見栄えなのに、投棄物の多い不潔などぶ川にも居て、例えるなら、我楽多車庫に真っ赤なポルシェが置かれたような風景であった。
 アメリカ原産の外来種で、日本に移入されたのは昭和二年のこと。ウシガエルの餌用として鎌倉の食用蛙養殖場に二十匹持ち込まれたのが最初だとか。その後、養殖池から逃げ出した個体が全国にまで分布域を広めた。ぼくの誕生より高々十五年前にやって来たものが、早くも全国の舞台を踏んでいたことに驚く。
 かつてザリガニ釣りの経験した仲間は多い。高校時代の仲間たちは「餌としてスルメを使った」と言っていたが、彼らは都会の坊ちゃんばかり。ぼくは〝食べられるスルメ〟で〝食べられないザリガニ〟なんか釣らない。手掴みで充分捕獲出来た。
 今〝食べられない〟と書いたが、それは日本人の嗜好にザリガニが馴染んでいないだけのこと。海外においてはフランス料理、中華料理の高級食材だし、アメリカのルイジアナ州では郷土料理とされている。当時そういうことを知っていたら、貧困のわが家のエンゲル係数引き下げに、少しは貢献してくれたかも知れない。

『靴磨き少年』

『靴磨き少年』
 東京の国鉄の駅に近いガード下では、戦地で負傷した復員兵(傷痍軍人)が木綿の白衣を着て、ハーモニカやアコーデオンを奏しながら、通行人からの金銭支援を仰いでいる姿がよく見られた。戦争に行ったにしては若過ぎる─と思える人も居たと聞く。
 そのガード下に、靴磨きのおばさんや少年も居た。多くが、戦争で夫を亡くした女性であったり、空襲で両親を失った孤児たちだ。ガード下は雨露凌げる格好の場ではあるけれど、そのくすんだ景色の在りようは、哀れを一層強調させた。
 ぼくは、そんなガード下が苦手だった。おばさんの悲劇にまでは思いが至っていなかったが、自分と同じ年頃のシューシャインボーイを見てしまうと、平常心が乱される。ひどく申し訳ない気分になって、コソコソ逃げ出すしかなかったのだ。
 靴磨きの少年は、戦後の駅周辺に相当数居たと思う。というのも、NHK『紅白歌合戦』の第2回(昭和二十七年)と第3回(同二十八年)では、暁テル子が『東京シューシャインボーイ』を歌っているし、第6回(昭和三十年)では宮城まり子が『ガード下の靴みがき』を歌っている。
 今尚海外の貧困地域では、靴磨きはストリートチルドレンの収入源になっている。

『ニコヨン』

『ニコヨン』
 ニコヨンとは、昭和二十四年の緊急失業対策法施行を受け、東京都が日雇い労働者の最低保障日当を240円(百円札2個と十円札4個)としたところから出た言葉。しばらく日雇い労働者の通称となっていたが、現在は死語になっている。
 日雇い労働者の多くは道路工事などの肉体労働に従事していた。彼らは毎朝六時頃職安(職業安定所)に集まり、そこから現場に派遣された。実働七時間の重労働。肉体的に辛かったが、雨が降って仕事の無い日は、日当も無いから、そっちの方が労働以上に辛かった。最低賃金はその後、昭和二十八年に240円から272円になったが、「ニコヨン」の通称はそのまま暫く続いた。
 当時の工事現場でぼくがよく目にしたのは、基礎工事の〝エンヤコラ〟。カスリの着物にもんぺと地下足袋、頭に手拭い、姉さん被りのおばさんたち。男に混じって、重い槌落としの綱を引く。顔も腕も日焼けで真っ黒。
「おっとちゃんのためならエーンヤコラ、も一つおまけにエーンヤコラ」
 滑稽でも無し、好奇でも無し。どこか悲しいヨイトマケ。日本が高度成長期へと至る底辺を支え続けてくれたのは、このニコヨンと呼ばれた人たちだった。

『お正月』

『お正月』
 何となく、今年もよい事ある如し。元旦の朝晴れて風無し─(石川啄木)。この人までもがそう謳ったお正月。子どもが冷静でいられるわけがない。商店街に最初の松飾りが立った瞬間、ぼくの心は正月色に染め抜かれた。口を突くのは ♪もういくつ寝るとお正月…(唱歌『お正月』)。いつだって、無意識の中から飛び出る歌だった。
 元旦の朝は、明けやらぬ前から目が覚めた。毎年ではないけれど、枕元に新しいジャンバーが置かれていたりすると、もう堪らない。寝返りをわざと何度も繰り返し、ついには「ねえ、もう起きてよ」と一家の起床を催促した。
 起きて冷水で顔を洗う。この日ばかりはキッパリ洗う。食卓膳に全員揃って「おめでとうございます!」。「お餅は幾つ?」と母が訊く。ぼくと兄は大抵「三つ」と答え、父は大抵「五つ」と答えた。母手作りのおせちを食べ、お雑煮を食べ、いよいよ手にしたお年玉。四年生の時は五十円だった。相場より少なかったが、何となく、それがわが家の額だと納得していた。
 駄菓子屋が開くのを待って、ぼくはその全額で武将絵の六角凧と、相当長めの糸を買った。凧は数日後に糸が切れ、探索空しく寒の風に乗って消えた。

『バスガール』

『バスガール』
 ♪田舎のバスはおんぼろ車 タイヤは泥だらけ窓は閉まらない…と歌ったのは中村メイコの『田舎のバス』(昭和二十九年)。♪若い希望も恋もある ビルの街から山の手へ…は初代コロンビア・ローズの『東京のバスガール』(昭和三十二年)。
『田舎のバス』は、路線バスの車掌さん。『東京のバスガール』は、はとバスのバスガイドさん。どちらも当時は「バスガール」。歌はいずれも大ヒットした。
 戦前、東京の市バスのバスガール(車掌)の制服は、三越百貨店受注のオーダーメイド。洋服を着ての勤務とあって女性たち憧れの職種だった。
 ぼくが初めて見た東京の路線バス(乗り合いバス)は、煙をモクモク吐きながら走る木炭バスだった。その乗降口に立つ若い制服姿のおねえさん。でも、それに違和感を覚える人はいなかった。それが時代というものだろう。都営の路線バスから車掌さんが消えたのは昭和四十年。すべてがワンマンカーへと切り替わった。(大阪では、昭和二十六年には早くもワンマンカーは走り出している)
 自動化は進む。バスばかりか諸々の商店からも、売買に関わる会話が消える。会話が再会されたとすれば、それは嗚呼…アンドロイド。